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川柳的逍遥 人の世の一家言
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この世からの出口は不意に現れる   新家完司



天正10年(1582)6月13日、光秀山崎の戦いで討たれ、

織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、

尾張の清洲城にて会議が執り行われた。

出席者は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名。

秀吉、勝家、長秀は織田家の宿老という地位で、

会議の列にいるのは当然だが、あまり実績もなく発言力のない、

池田恒興が何故、重臣として参加することになったのか・・・。

恒興は信長からの信頼が厚く、また恒興の生母が信長の乳母で、

信長とは乳兄弟という関係を重視し、秀吉が推挙したのであった。

会議で主導権を握りたい秀吉の思惑が見えてくる。

重臣の一人、滝川一益は北条との戦線にあり出席出来ず。

劇場へ運ばれてゆくペンと線  筒井祥文

        おぜほあん
ところで、小瀬甫庵「太閤記」、また大村由己「天正記」でも、

清洲会議の後継者問題は、もともと三法師に決まっていたと書いている。

秀吉は三法師を安土城に置き、信雄に後見させようとするが、

織田姓に戻った信孝は、自分が後見人になろうと企て、

勝家と与して、三法師の争奪戦が始まったというのである。

清洲会議の争点は、巷で知られている

「織田家の後継を、信孝にするか三法師にするか」 

ではなく、

「三法師の後見を秀吉にとって、

   御しやすい信雄にするか?信孝にするか?」

だったという。
                        のぶかつ
そのため信長の次男・信孝と三男・信雄は会議には出席せず、

別室での待機となった。

眼科で貰った世襲の舌の裏  井上一筒



これでは清洲会議が面白くない、ので従来のエピソードにする。

評定は信長の甲冑が飾られた主殿で行われた。

初っ端から秀吉が信長の後継者として名乗りを挙げるのはまずい。

光秀討伐は、あくまでも弔いのためという大義名分があり、

秀吉の野望が露骨になれば、反発は大きくなる。

そこで秀吉は、まだ幼い三法師を跡取りにして推薦することを進言。

もちろん幼い三法師には、一族を率いる力などないため、

成人を迎えるまで、

信長の遺児である信雄と信孝を後見人の据えようと提案する。

帽子から取り出す予感とか造花  富山やよい

そこで勝家は、信雄には織田家を継ぐ器量がないとして、

信孝を推した。

明智討伐に遅れた不手際を挽回しようと懸命だが、

口で秀吉に勝てるわけがない。

「事は天下の耳目を集める織田家の行く末。

   誰もが得心のいく節目の正しさが肝心どぇございまする」

「筑前め、三法師を傀儡にして、織田家を牛耳る企みに違いない」

勝家は歯噛みしたが、劣勢はどうしようもなかった。

一言が胸にストンと落ちました  合田留美子



信孝が主君になれば、

烏帽子親を務める勝家の影響力は増しただろうが、会議は、

長秀が秀吉の『長子相続の筋目論』を支持したことで、

信長の長男・信忠の嫡子・三法師が家督を継ぐことになった。

ともかく「甫庵太閤記」「天正記」は、清洲会議自体は波風立たずに、

終了したとも描いている。

むしろその後になって、信孝・勝家と秀吉の間の対立が深まっていく

様子が、主な内容になっている。

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

清洲会議の決定をすんなり受け入れられない者たちがいた。

筆頭家老から転落した勝家と信孝である。

この両者に、清洲会議に声もかからず、

秀吉への不満を抱いていた伊勢長島の滝川一益らの「反秀吉派」は、

ちゃくちゃくと謀反の企てを進める。

しかし、それを見逃す秀吉ではない。

その年の冬、賎ヶ岳付近は燻り、勝家と刃を交える時が近付く。

終章で投げた小石に蹴躓く  上田 仁

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