薄氷そんな約束したかしら 美馬りゅうこ
杉 寿
「文の次姉・寿」 (楫取素彦の最初の妻)
杉家の次女・
寿は高禄の長州藩士との結婚が決まっていたが、
兄・
寅次郎が脱藩の罪に問われたため、破談となる。
寅次郎は、江戸でともに学んだ同郷の
小田村伊之助の資質を見込み、
「寿は学問好きの小田村とは、必ず似合いの夫婦に相成り候」
という手紙を杉家に送っており、それがきっかけとなり、
松陰とは9歳年下の寿は15歳で、松陰より1歳上の小田村に嫁ぐ。
小田村は
「明倫館」の講師でもあり、松下村塾の中心人物でもあった。
松陰は、村塾を彼に託そうとしたくらい、よくできた人物だった。
しかし、ペリー来航で騒然とする中、彼もまた不在がちの毎日で、
寿は、子どもを連れて実家で生活することが多かった。
無駄骨を何本折ったかで決める 立蔵信子
松陰は、長姉・千代に比べて優しさよりも勝気が勝る彼女を心配して、
それを戒める手紙を出している。
「お寿は、若い時は心が偏ったところがありました。
この気性は生まれた子にとっては、わざわいになるでしょう。
しかし、今子どもを抱く身になったのだから、
決して若い時のようにしてはいけません。
穏やかで素直で心を広くして幼子を育てて、
将来、勉強に精を出すもとを作りなさい。
それを大いに祈っています」
ひさいえ
(小田村夫婦の間には、結婚の翌年、長男・篤太郎(希家)、
4年後の安政5年(1858)次男・久米次郎(道明)が生まれている)
破れ目から何かころりと抜け落ちる 山本昌乃
二人が結婚したとき、
文はまだ10歳そこそこの少女であった。
はるか年上の小田村が、後に、
自分の夫になるとは思いもしなかっただろう。
ただただ敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていたに違いない。
この姉は、松陰も認めるほどの、賢く気丈夫な女性だったからである。
小田村が
「野山獄」に囚われたときのことである。
寿は人目のつかない夜中に、彼のもとを訪れ食物や衣類を届けた。
同行した文が怖がっているのに、寿はびくともせず、
面白がるふうもあった。
そして、松陰が刑死、義弟の
久坂玄瑞も戦死して、
維新を迎えた寿は、
楫取素彦と名を改めた小田村に対する
妻としての役割を務め上げている。
彼女の勝ち気な性格が功をせいした一場面である。
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他にも楫取が群馬県令として赴任したときは、
「寿の助けがなくては、やりとげられなかった」
と思われる役割を果たしている。
当時、道徳教育が津々浦々まで行き届いていたとはいえず、
赴任地の群馬も、
「難事県」と呼ばれていた。
寿は、荒くればかりの群馬の人々を救うには、
「宗教しかない」 と思いあたり、
昔から信仰していた浄土真宗の教えを広めようとした。
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それは見事に成功し、その活躍は、
「荒くれし地にもみのりの花は咲く 名もゆかりある熊谷の里」
と詠われた。
また寿は
「関東開教の祖」といわれた。
やがて楫取素彦が携わった
「製紙業」も盛んになる。
群馬県が「養蚕」で有名になり、「教育県」と呼ばれるなったのは、
寿の協力があったればこそであった。
この製糸場と絹産業遺産群が、いわゆる、
「世界遺産」・「富岡製糸場と絹産業遺産群」となる。
こうして、内助の功以上の功績を残した寿だったが、胸を病み、
明治14年2人の息子を残して、44歳の若さで亡くなった。
満月は嫌いだすぐに欠けるから 嶋澤喜八郎[4回]
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