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川柳的逍遥 人の世の一家言
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春が来た来たどの顔もみんな友  森中恵美子



吉田家の養子となった松陰は11歳で毛利敬親の前で講義をするなど、

その将来を嘱望される。

そして、松陰が萩の松下村塾で講義を始めると、

文は塾の女幹事として、兄や塾生を助け、志士たちとも交流を持った。



「まず、文のこと」

杉文は天保14年(1843)、今の萩市にあたる長門国松本村に生れる。

父は長州藩の下級武士・杉百合之助、母は瀧子

7人兄弟姉妹のうちの二番目・四女として生まれたために、

次男の虎之助(松陰)とは、13歳の年の差があり、

文にとっての松陰は、仰ぎみるばかりの存在であった。

松陰はすでに、吉田家に養子に入り、吉田家を継いでいたが、

養父が早くに死去したために、実家に戻り同居していた。

したがって、文は、松陰という強烈な個性を持った人物を、

身近に見ながら成長していくことになる。

ハンカチをひろげて君の駅にする  河村啓子



しかも文誕生の翌年には、三女のが3歳で死去、
   ひさ
6歳の時には長姉の千代が結婚、

さらに12歳のときに次姉の寿が、
           かとりともひこ
後に文の夫になる楫取素彦と結婚をする。

だから、文は久坂玄瑞と結婚するまでの4年間、

杉家に残った一人娘として過ごした。

おそらく、独身だった松陰の身の回りの世話も一手に、

引き受けていただろう。

この時期、松陰は日本の現状を憂う余り、

脱藩の罪を恐れず東北に遊学したり、

密航を企てたりして、杉家に幽閉状態になっていた。

したがって、松陰にとって結婚など思いもよらないことだったのだ。

布団ではいつもぐらぐらしています  竹井紫乙



松陰の妹・千代が次のようなことを語っている。

『ご存じの通り、兄の人生は、わずか三十年です。

   短いと言えば、たしかに短い人生なのですが、

   三十歳といえば、そのころの世間一般からすれば、

   妻をむかえ、家庭をもつべき年齢でした。

   けれども兄は、青年になってから、

   ずっと全国各地を旅してまわっていましたし、

   国にいる時は、お咎めを受けた身の上で、

   家で謹慎するよう申しつけられておりましたから、

   妻をもつという話など、どこからも出てくるはずがありません。

   それでも、親戚のなかには、罪人という身の上だから、

   表向きは、たしかに妻を娶るわけにはいかないが、


   せめて身の回りの世話をする女性ぐらいは、

   近づけてはどうか,、
などと言ってくる者もいたようです。

   親切心から、そう言ってくださったものと思いますが、

   それは、兄の心のうちを知らない人の言葉ですから、

   家族の者で、そのことを兄に、面と向かって言った者など、

   だれもいません。


   兄は、生涯、女性と関係をもつことはありませんでした』

 富士山になるまで禁欲はつづく  中野六助             



幽閉状態にもめげず、叔父の玉木文之進から譲られた松下村塾に、

多くの若者を集め育てた松陰の姿に、

文は多大な影響を受けたに違いない。


※ 松陰の妹・千代
松陰には6人の兄弟妹(民治、松陰、千代、濤子、美和子、敏三郎、艶子)
がいた。
千代は松陰より2歳年下の妹であった。
下級武士であった杉家(松陰の実家)の生活は苦しいものであったが、
家族仲はよく、厳しくも愛情豊かに育てられた。
千代は松陰より2歳年下の妹であった。


文は後に名を美和子と改める。
                                                ねいじつ
夫の玄瑞、東奔西走殆ど寧日なく、席暖るの日なかりしに、

よく家を守りて後顧の憂なからしめ、子なきを以て楫取の一子を養ふ。
                                  つと
玄瑞の死後、専ら、この子を携へて久坂家の復興に力めしが、

この子ゆえありて楫取家を嗣ぎ、文また後に、

亡姉・壽の後を襲ひて楫取素彦に嫁す。

(※楫取は生前の松陰が後事を託した人物である)

どの年齢のきみに会っても恋をした  山口亜都子

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