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川柳的逍遥 人の世の一家言
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タコとイカ契り九本足を生む  清水久美子


玉木文之進邸(旧・松下村塾

文や松陰の近くにある玉木文之進の旧邸。
玉木はここに松下村塾を開校、その弟子だった松陰が受け継いだ。

「叔父・玉木文之進」

松陰の父・百合之助には2人の弟がいる。

一人は、当主が早世し6歳で吉田家の養子になった吉田大助で、

この吉田家が、松陰の養子先である。

義父・大助もまた、学問に優れた人であったが、

松陰が養子となって間もなく病没している。

短い期間でも松陰は、この義父にいろいろなことを教えられている。

このときを教訓に松陰の言葉が残る。

「亡父の教えを尊敬している者が、どうして泥棒になって、

    何もしないで家禄をもらっていられようか」

「賢くて善良な人が大志を抱きながら若死にしたことは、

   実に悲しむべきことだ。

   彼の遺言を守って、自分は勤皇の心をさらに強くしよう」

と、言って自らを励ました。

割り算の余りがとても愛おしい  雨森茂喜



2番目の弟が、玉木文之進である。

という名は、この叔父からの一字をもらったものである。

当時は家の存続のため養子縁組は頻繁にあり、

文之進の姓が、杉でないのも、彼もまた、

玉木家へ養子に行ったためである。

もともと、杉家は吉田家の出であり、

山鹿流兵学を修める家柄だったので、

その伝統が、吉田家、杉家、玉木家に伝わることになった。

ええたしか足がここにありました  河村啓子

文之進は、文武両道に優れ、結婚後も杉家に同居していたから、

杉家の子どもたちの教育は彼の役割だった。

その後、「明倫館」に出仕するようになるが、

ここでも、松陰兄弟のよき師として務めた。

しかも松陰が育てた「松下村塾」の創始者でもある。

明倫館での活躍の一方で、異国船に対する防御については、

祐筆などの要職を務めている。

したがって藩の上役たちも「玉木先生」と呼んで尊敬していたという。

棘を脱ぎ栗は大人になっていた  斉尾くにこ

とくに各地の代官を歴任したときは、16人いた代官の中で、

もっとも優れた代官といわれた。

しかし、明治9年「萩の乱」が勃発したときに、

その責任をとって自刃している。

文之進は、首謀者に前原一誠がこの乱を組織して、

内乱を起こそうとしているのを知り、その軽はずみな計画を諌めたが、

一誠は言うことを聞かず、兵を挙げてしまったのだ。

「松下村塾」年長の塾生だった一誠は、

倒幕を松陰の敵討ち、と捉えていたかのように活躍したが、

明治政府の高官になってのち、政府の主流と対立していた。

松陰もその性格を心配していたように、

一誠の「誠実で生一本」の性格が招いた乱でもあった。

指先が余る君の音も拾えない  酒井かがり

文之進は自刃の前に次のようなことを語っている。

「これは私のかねての教育がよくなかったから起こったことである。

    何の面目があって、亡くなった父兄に申し開きができるだろうか、

    また弟子の教育ができるだろうか。

    その責任は私にある」

文之進、67歳の時であった。

七三に裂いた残りが渡月橋  井上一筒

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