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川柳的逍遥 人の世の一家言
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満月の雫を綴る銀の針  井上一筒


  玄瑞自筆の書簡
4月27日に発見された、玄瑞が小田村文助にあてた書簡。

「玄瑞の手紙」 

手紙の日時は旧暦のため現在の暦に合わせるには、
一ヶ月半ほど後ろへ。
例えば、3月28日であれば、5月中頃となります。



「文久2年(1862)」 4月
3月28日と4月4日の手紙はたしかに受け取りました。
私たちもこの頃は京都藩邸のうしろに住み、
佐世、楢崎兄弟、寺島、中谷、真五郎など同居しています。
杉蔵、和作、弥二などが追々訪ねてきます。
面白く楽しいのはこのときでございます。
しかし3月13日松洞が切腹したことは非常に残念です。
松洞の家へ手紙を出したいのですが、何とも言いようがなくて、
手紙を出せないでいます。

梅兄にすぐにお金を借りることができ大きなしあわせです。
玉木文之進おじ様が藩の役職につかれて、お慶び申し上げます。

さて、毛利の若殿様がご上京になりますことは
非常にありがたいことです。
そして本当にありがたいご意向をお示しになられたそうで、
これまではいろいろと苦心いたしましたけれども、
御意を表明されたことで、私も生き返ったような心地がいたします。
このことはずいぶんとご安心してください。

四月朔日                    玄瑞在京都
尚々ご用心してください。
杉家の皆さん方へもよろしく申しあげられますよう、
お頼みします。          
以上。                    
お文どの


忙しい中からひとときを摘む  立蔵信子



この頃の玄瑞の懊悩煩悶はひとえに、
    うた
長井雅楽「航海遠略策」が藩論となって、

跳梁跋扈していることだった。

松洞は長井雅楽の「公武合体論」に反対し、

暗殺を企てるが失敗し、京都粟田山で割腹自殺を遂げている。

26歳だった。

 杉蔵(入江九一)、和作(野村清)、弥二(品川弥二郎
         松洞(松浦亀太郎)、毛利の若殿(毛利定広)、
         楢崎兄弟(弥八郎と仲助
佐世(八十郎)、寺島(忠三郎
         中谷(正亮)・真五郎(堀真五郎


化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子

「文久2年」5月28日
…前略…
さて、夏物の着物をお送りくだされ、大きな幸せでございます。
お国許を旅立ったときは、
なかなか夏物は必要と考えなかったのですが、
このところの様子では、
いつまで滞在しなければならないか予測が出来ず、
長期間の在陣になるかもしれません。
詳しくは杉蔵から聞いてください。

亀太郎のことは、さてもさても気の毒千万で、
老いた母の悲しみが思いやられます。
こちらでも墓は立派に建てましたが、
拙者もこの節はいろいろ心配ばかりで、
十のものが九までは思うようにならず、
ちっとも藩へのご奉公の効果がなくて、恥ずかしい次第です。
吉田松陰先生さえいらっしゃればと残念に思うばかりです。

錆び色の艶出しながら生きている  上山堅坊

…中略…
さてこのたびのことに関しましては、
婦人にもなかなか感心なものが沢山おります。
久留米の真木和泉という神主の娘はこのたびのことについて、
上方へ上ったときに詠んだ歌は素晴しいです。
"梓弓はるは来にけり武士の花 咲く世とはなりにけるかな"
(弓を張るのと、これから新しい春がやってくるというのにかけて、
   もののふの花咲く時代がやってくる、と長州が天皇を奉って
   大攘夷を実行するということを喜ぶ歌を詠んでいます)

和泉守というのは、私も非常に心安い男であります。
この弟は大鳥居理兵衛といって、
先日、筑前の黒崎というところで切腹されたほどの人でございます。
また、梅田源次郎の姪のお富という女の詠める歌もお送りします。
これはお富の直筆です。
杉蔵の妹もじつに感心な人です。
杉蔵の妹が杉蔵へ送った書状もお読みください。
私は今日も忙しいので、おおよそのところを申し送ります。

五月二十八日                玄瑞

当分はピンクで埋めておく余白  田岡 弘



真木和泉は玄瑞と最後まで行動をともにした同士であった。

いよいよ攘夷が実行されるときが来て、和泉の娘の歌には、

父・真木和泉がいかに攘夷を待ち望んでいたかが読みとれる。

梅田雲浜はこのときすでに亡くなっているが、

雲浜の姪である富子は玄瑞と文通し、

雲浜の遺志を継いで尽力する女傑であった。

うんうんと頷く人がそばにいる  河村啓子

いよいよ雲浜の遺志を実現できる世の中へと

変化しつつあることを喜び、玄瑞、九一、前原一誠などが、

富子を料亭に招待し、

その席上で富子は歌を詠んだ。

玄瑞が文への手紙に封入した直筆の歌がこれである。

"在りし世のことこそ思へ懐かしな 花橘の咲くにつけても"

"思ふかな枯れにし庭の梅の花 咲き返りぬる春の空にも"

富子はその後も長州藩の志士たちと公家の大原重徳卿との間の

書状の往復の使者の役目を請け負っていた。

宝石になるまで磨くつもりです  竹内ゆみこ

杉蔵の妹・すみ子の手紙も、玄瑞は杉蔵から見せてもらっていた。

兄二人が尊攘運動の中、父もおらず幼い頃から貧苦と闘いながら

年老いた母を助けて、家事をするすみ子に感銘を受けていた。

松陰も女性だから教養は必要ない、というような人ではなかった。

玄瑞はその師の教えを受け継いだというより、

玄瑞も、もともと人として、武士の妻として、

修養が心の糧となることを

文に一生懸命に伝えようとしたのである。

下書きの便箋だけが知る本音  上嶋幸雀


  真木和泉

「真木和泉」

筑後国久留米、水天宮の神職に生まれた真木和泉は、
            あいざわせいしさい
江戸に出て水戸の会沢正志斎に面会し、尊攘思想の影響を受ける。

久留米に帰ると水戸学の思想を盛んに唱え、
       よりとう
藩主・有馬頼永に藩政改革意見を上申したが受け入れられず、

蟄居を命じられた。

日の昇る水平線を信じたい  森田律子

11年におよぶ幽閉中、

和泉のもとを諸国の志士たちが密かに訪れることも多かった。

文久2年、大久保利通らと、公武合体政策推進派で

薩摩藩の最高権力者・島津久光を擁立して上京。

しかし、「寺田屋の変」で久留米に護送、幽閉される。

赦免後、「8月18日の政変」が起こると長州藩へ逃れた和泉は、

元治元年(1864)、攘夷派の玄瑞来島又兵衛ら同志と

「禁門の変」を起こすも敗れ去る。

そして、敗走中に新撰組の追撃を受けて自害した。

新しく今日も旅立つ千の風  大西將文

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