電池みな入れ替えましたけれど雨 山本早苗
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生麦事件(明治になって想像で描かれた)
捕らえられた英国人が島津久光の前に連れてこられている。
実際には、久光は駕籠からでていない、
斬捨てを命じた記録もない。
当時は、久光の武勇伝となっていた。
「1862年」
大老・
井伊直弼が非業の死を遂げた後、
混乱する幕府を担ったのは老中の
安藤信正であった。
ひろちか
信正は直弼によって罷免させられていた
久世広周を老中に
返り咲かせ、政権内部の井伊色を一掃したのである。
そして老中による桜田門外事件の取調べは曖昧なままで終わらせ、
水戸斉昭が万延元年
(1860)急死すると、
事件の要因となった
「密勅返納問題」もうやむやにしてしまった。
もうおぼろ すべてはおぼろおぼろなり 大海幸生
安藤・久世政権は破綻していた公武の融和策を再開することを決定。
孝明天皇の妹・
和宮を、将軍・
家茂の正室に迎える計画を推進する。
これが実現すれば天皇と将軍が義兄弟となり、
国難に協力してあたる道筋ができるのだ。
こうして、和宮内親王に徳川家茂への降嫁が決まり、
翌文久元年10月、京を発って江戸へと向かった。
この降嫁は、尊皇攘夷を唱える勢力からは、
幕府が朝廷の力を利用したように映った。
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島津久光
推進者であった安藤信正は、婚儀直前の
文久2年
(1862)1月15日、
坂下門外で水戸浪士らに襲われた。
さすがに命を落とすことはなかったが、
安藤は4月11日に老中を解任されてしまう。
安藤解任と同じ頃、
薩摩藩主の実父で「国父」と称した
島津久光が
兵を率いて京に上り、幕政改革の意見書を朝廷に提出。
そして、文久2年4月23日に、過激な倒幕行動を画策していた、
薩摩藩や諸国の尊王志士が集まる伏見の
寺田屋に使者を派遣。
命に従わなかったために、粛清している。
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この事件がきっかけとなり、久光は朝廷から絶大な信頼を得た。
そして勅旨を伴い江戸へ下向。
将軍に
国政改革を要求した。
この一連の出来事は、藩主でもない久光が政局中央に
華々しく存在感を示したことになる。
建白の内容は、
「公武合体」、
「朝廷の権威の振興」、
「幕政改革を実現」させること、というものであった。
それは幕府独裁ではなく、有能な人材を配して朝廷と話し合い、
国の方針を決めるものであった。
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そして久光の目論見通り、
将軍後見役に
一橋慶喜、政事総裁職に
松平春嶽を登用。
目的を果たした久光は、さらに江戸にとどまり、
慶喜と春嶽に幕政改革を要求した。
幕府は、権威を背景とした久光の要求を拒むことが出来ず、
国内外に自らの権威が失墜したことを晒してしまう。
6月7日から江戸に滞在していた久光一行は、
すべての周旋を終えて8月21日に江戸を後にした。
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事件の起こった生麦村付近の古写真 (拡大してご覧下さい)
この付近でリチャードソンの遺体が発見された。
右、リチャードソンの遺体。
英国人4名は、上海から避暑に来ていたため、
日本の事情には疎かった。
そして京都へ戻る途中、思いもよらぬ事件を起こしてしまう。
たちばなぐん なまむぎむら
久光の行列が武蔵国・橘樹郡・生麦村付近にさしかかった時、
乗馬のまま、
島津久光の駕籠近くまで乗り入れた英国人4名に、
ならはらゆきごろう
薩摩藩士・
奈良原幸五郎は、
「無礼者!」と一喝するやいなや、
腰の刀を引き抜き、一行に斬りかかった。
文久2年8月21日の
「生麦事件」である。
結果、
チャールス・レイックス・リチャードソンという男性が死亡、
2名は重傷を負う。
当時の武士が主君を守る行為は自然のことだし、
久光が咎めなかったのも、普通のことだった。
しかし、これが幕末震動の重大な問題に発展していく。
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寺田屋で斬り合う薩摩藩士
「ついでに」ー二つの寺田屋事件
「一つ目の寺田屋事件」ー(薩摩藩粛清)
薩摩藩主・島津久光によって鎮撫された事件である。
当時、薩摩藩には島津久光を中心とする公武合体を奉ずる
「温和派」と勤王討幕を主張する「急進派」との二派があった。
久光にはこの当時、倒幕の意志などはまったくなく、
朝廷から急進派鎮圧の密命をうけ、藩兵千名を率い上洛した。
これを知った有馬新七ら30余名の急進派の同志は、
なおただ
文久2年(1862)4月23日、関白・九条尚忠、
所司代・酒井忠義を殺害すべく、
薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。
これを知った久光は藩士・奈良原ら8名を派遣し、
新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、
遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負った。
つなよし
この後、新七は示現流剣術の達人・大山綱良によって上意討ちされる。
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「二つ目の寺田屋事件」ー(こちらの方が有名か)
慶応2年(1866)1月23日、
京で「薩長同盟の会談」を斡旋した直後、
薩摩人として宿泊中の坂本龍馬を、伏見奉行の林肥後守の捕り方が
捕縛ないしは暗殺しようと寺田屋を取り囲んだ。
その異変にいち早く気づいたのが、後の龍馬に妻になるお龍。
入浴中だったお龍は、裸のまま2階へ駆け上がり、
龍馬に危機を知らせた。
捕り方に踏み込まれた龍馬たちは、拳銃などで応戦。
龍馬は親指を負傷したが、何とか寺田屋を脱出して木材屋に潜む。
仲間の三吉慎蔵は、伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を要請。
救援をうけた薩摩藩は、川船を出して龍馬を救出した。
龍馬は、様々な人の機転により九死に一生を得た。
ナメタラアキマヘンという涙跡 森田律子
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