予言からやっぱり 茶柱が立たぬ 山本昌乃
留魂録
留魂録とは松陰が安政6年、処刑前に獄中で塾生のために著した遺書。
「松陰・留魂」
安政5年
(1858)6月19日、日米修好通商条約が調印された。
「尊皇攘夷」を掲げる
松陰には到底納得できなかった。
朝廷の勅許も得ず、手前勝手に外交を執り行うなど、
もと
忠節に悖るものであり、
また異国の要求を唯々諾々と受け入れた開国では、
攘夷などおぼつかない。
松陰は時局に焦った。
まなべあきかつ
そんな中で考えたのが幕府老中・
間部詮勝の要撃計画であった。
果たし状運ぶ切手は前のめり 雨森茂喜
しかしこの計画は未遂に終わる。
松陰のこのような過激な行動を警戒した藩は、
ふたたび松陰を野山獄に投じた。
松陰の
「一刻も早く事をなさなければ」という危機感は、
獄中にあって日に日に増していく。
塾生たちの
「時勢静観」の声や親族の叱責など、
耳に入らない松陰は、獄中からなお、
くっき
様々な策を練り上げては塾生らに、
「崛起」を呼びかけていく。
メビウスの環になってゆくテロリスト 真鍋心平太
松陰はこの小伝馬町牢獄の西奥揚屋に囚われる。
そして、安政6年4月20日、
幕府はいよいよ江戸長州藩邸に松陰の差し出しを命じた。
すぐさま国元へ報せが走り、
5月14日、兄・
梅太郎から松陰のもとへ報せられた。
10日後、護送。
夜来の雨の中、護衛の人数30名という物々しさだった。
松陰の江戸到着は、6月25日、
取調べを担当したのは大目付、勘定奉行、町奉行の3名である。
この折、確認したかったのは、
梅田雲浜と共謀したかどうかであり、
かつまた、御所へ落し文したかどうかという、
いわば些細なことだった。
這い出した男はセロファンで包む 山口ろっぱ
松陰はこれに理路整然と答える。
しかし、奉行たちの詰問が終わると、
喋らずともよいことまでを語りかけた。
今現在、日本が直面している危機に対して、
幕府はどうあるべきなのか。
そもそも幕府はどう考えているのか…。
うら
松陰の口から、胸の裡にあった言葉が次々と溢れ出していく。
一陣の風がたたらを踏んでいる 嶋沢喜八郎
「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」
その思いから、松陰は一心不乱に自説を語りかけた。
とうとう
あたかも幕府の重職たちを説諭してくれんとばかりに滔々と述べた。
「間部詮勝要撃計画」という充分死罪に値する企てを
吐露してしまったのは、この時だった。
結果、松陰はすぐさま捕縛され、
小伝馬町牢獄の西奥揚屋に押し込められた。
予報に逆らって雨中を駈ける天邪鬼 木村良三
高杉晋作から、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。
いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」
晋作の悩みが記されていた。
これに対し松陰は、
にく
【死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、
すなわち
道尽き心安んずる、便ち是れ死所】
と答えた。
意味は、
「死はむやみに求めたり避けたりするものではない。
人間として恥ずかしくない生き方をすれば、
まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる」
という。
散り際の美学をならう寒椿 渡辺信也
もはや松陰は、己の死を恐れてはいなかった。
処刑される直前、血の気の失われた顔を、
一瞬、引き攣らせたのは、
自分の死を知る家族のことを思ったのかもしれない。
しかし松陰はすぐに従容として処刑の場に臨み、
ご苦労様」と会釈して、端座
(正座)した。
その一糸乱れざる堂々たる態度には、
幕吏たちも感嘆しきりであったという。
分度器をはみだしてからの眼光 河村啓子
松陰が30歳の時、晋作に次のような手紙も送っている。
こらいまれ
【人間僅か五十年、人生七十古来希、
何か腹のいえる様な事を遣って死なねば成仏は出来ぬぞ】
意味は、
「人間の命は僅か五十年といわれている。
人生七十年生きる人は昔からまれである。
何か人間としてしっかり生きた証を残さなくては、
満足して死ぬことはできない」
そして、享年30歳という若さで松陰は散っていく。
歩いては戻れないほど遠ざかる 八上桐子
[4回]
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