生き霊と死霊の話聞き分ける 井上一筒
留魂録 (拡大してご覧ください)
留魂録は、
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
という辞世の句を巻頭にして始まる。
「松陰を偲ぶ」
松陰が世を去った今、故郷の萩にあって玄瑞たち弟子は、
師が何を伝えたかったのか、思いを巡らせることしかでかない。
玄瑞と晋作は、松陰が護送された日の足跡を辿るように、
いや、真実を探るように歩き続けた。
萩城下から松本川を渡り、大木戸を出、萩と三田尻を結ぶ往還を行き、
金谷天神を過ぎ、観音橋を目に留めた。
カナリヤも唄わぬシャッター街の雨 奥山晴生
江戸へ帰らぬ旅 (拡大してご覧ください)
橋の手前に老松が佇んでいる。
「涙松」と呼ばれる松で、護送の一行はこの根方で休息した。
その際、松陰はそぼ降る雨に打たれながら歌を詠んだという。
"帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほ濡るる涙松かな "
この地から城下が一望される。
一行の誰もが、松陰は故郷に戻れないと思っていた。
萩の見納めさせてやろうという、
憐れみからの小休止だったに違いない。
お魚のなみだか海のしょっぱさは 下谷憲子
松陰絶筆
玄瑞が
「先生はやはり決死のお覚悟だったのだろうか」
と呟いたとき、妻の
文が駈けて来た。
和紙を一片、握りしめている。
どうしたのかと問えば、
文は
『留魂録』にも
『永訣書』にも見られぬ
「絶筆」が届けられたのですと涙ながらに答えた。
刑死の直前に詠んだものらしい。
こそ
"此れ程に思い定めし出で立ちは けふきく古曽 嬉しかりける"
あの世に旅立つ覚悟はとうにできていたし、
今日それを告げられたのは実に嬉しい、という意味になる。
毛筆のかすれに他意はありません 嶋沢喜八郎
これが先生だと、玄瑞はおもわず声をあげた。
「これが吉田松陰だ、
命を賭してでもあくまで志を成し遂げようとした。
大和魂をもった男子ではないか]
「首を刎ねられるその瞬間、先生は、
誇りある死を体現されていたに違いない。
その死こそが津々浦々に集う志士たちへの檄となるのが、
わかっておられたからだ。
先生は、己の死は希望へと繋がると確信し、
受け入れられたのだ」
抱きしめる癌細胞ごと君を 居谷真理子
松陰は『留魂録』の中に、
【人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、
三十歳には自ずから三十歳の四季が、
五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、
夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、
霊椿を蝉にしようとするような事で、
いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、
実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、
私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、
それを受け継いでやろうという人がいるなら、
それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、
収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい 】
と記している。
来るものが来た歳時j記と向き合って 森中恵美子
この身が果てても、この志は受け継がれると信じていたのだ。
眼を剥く
晋作に対して、玄瑞は、
「草莽志士を糾合し義挙するほかに策などはない」
と嗤ってみせた。
晋作は、「なるほど。先生の唱えておられた草莽崛起か」
と嗤い返した。
草莽とは、
草木の蔭に潜む隠者。
すなわち在野にあって志を抱いている民衆のことだ。
この草莽をかき集めて攘夷を実行するしかない。
それよりほかに松陰の言い遺したものはないだろう。
「狂うか」
不適に嗤った晋作とともに、玄瑞は師の遺志を継いでへと奔ってゆく。
(秋月達郎・記)
旨いもんやはり最後は水だろう 岩佐ダン吉[4回]
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