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川柳的逍遥 人の世の一家言
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咲かせたのはどなた紫陽花はピンク  森田律子

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晋作が妻・雅子に送った手紙

この手紙には、
  

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語」や「いろは文庫」などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」


「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

と「武士の妻」としての心得が綴られている。

「慶応2年4月5日付、愛人・おうのには」

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」と綴り、

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えた。

(雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

   平仮名が多く使われ晋作の細かな心遣いと優しさが垣間見える)

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義


高杉雅子(政子)

「高杉晋作の妻・雅子)
 
雅子は、弘化2年(1845)長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

高杉晋作の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

時に雅子16歳、晋作22歳。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は、7年余りの短いものとなる。

夫の晋作が志半ばで結核に倒れ、

慶応3年(1867)4月13日29歳で亡くなってしまうからだ。

さらにいえば、晋作は国事に東奔西走し、

萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


   晋作の手紙

雅子は常に不在の夫と手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

晋作は優しい夫で、雅子は一度も叱られたことがなかったというが、

やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、

慶応2年2月、義母と息子と一緒に、

夫が同棲中の下関へ一時引っ越すこともした。

試験管の中で弾んでいる命  古久保和子

晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤博文らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

しかし小倉戦争後肺結核になった晋作の体調は悪化すると、

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

(望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

 雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある)

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ
  

  晋作の三味線

酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛した晋作が、

妻・雅子とおうのの初体面に修羅場を想定し残した漢詩がある。

妻児将到我閑居    
       (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有    
       (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落    
       (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何    
       (主人手をこまねいて如何ともするなし)

「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた」
「我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている」
「美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている」
「こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」

この後も雅子は、望東尼の仲裁も得ておうのと交友関係を持ち、

晋作の死後も交流を続けたという。

同じ男を愛した女同士で気の合うところがあったのだろう。

また、おうのは後、尼となって、死ぬまで晋作を弔い続けた。

言い訳を太らせ今日を生き延びる  前岡由美子


 晩年の雅子

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は、外交官などを努めた息子を先に亡くす、

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去した。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

どんな絵を描いても青空に負ける  橋倉久美子   

「余談です」

晋作の辞世の句。

「おもしろき こともなき世をおもしろく」 

と晋作が詠むと、続けて望東尼が

「すみなすものは 心なりけり」 

と下の句を続け、晋作の死を看取った。

原色のままでこの世を泳ぎ切る  嶋沢喜八郎

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