地球儀で探す地球の非常口 ふじのひろし
「桜田門の変の謎」
安政7年
3月3日、江戸城で桃の節句の儀式が催される。
朝5ツ半
(午前9時)ごろ、 前夜から降り続く雪の中、
井伊家上屋敷の門が開き、
井伊直弼の乗った駕籠を真ん中にして、
行列がしずしずと江戸城に向け歩みだした。
供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ち合わせて60余人。
行列の先頭が桜田門近くにさしかかった時、
森五六郎が直訴状を持ち、制止する警固の徒士をふり払い、
大老に接近を図る、まもなく、
1発の鉄砲の音が鳴りひびいた。
それが合図のように18人の浪士たちが、
直弼の乗る駕籠をめがけ、襲撃をかけてきた。。
駕籠のまわりには、直弼の家来がいたが、
雪のため、刀を袋で包んでおり、すぐには刀が抜けない。
それでも家来たちは直弼を守るため必死に闘い、8人を倒した。
良心が揺れると鬼が目を覚ます 栃尾奏子
直弼は幼いころから、読み書き、道徳となる儒教、剣道、弓道、
乗馬などを彦根藩の学者から学び、
埋木舎に住んだ17歳から32歳のころには、
和歌や茶の湯、剣術など、文武両道にわたる修行をつんだ。
直弼は、一度やり始めたら、途中で止めたりすることがなく、
納得するまでやりとげる性格だった。
その結果、居合いで
「新心新流」の免許皆伝を取得している。
そんな直弼が、襲撃犯にいとも簡単に殺害されたのは何故なのか?
また当日早朝には、
彦根藩邸に
「直弼暗殺計画」を密告する投書があったという。
しかし、
直弼は供揃えを厳重にすることなく出発した。
何故なのか?
虫メガネ無ければ読めぬ注意書 小金澤貫一
歌舞伎役者の3代目・
中村仲蔵は、出入りの商人から、
「桜田門外の変」の目撃談を聞き取り、詳細を日記に残していた。
それには、少人数で成功した理由や、
短時間で決着した理由、
また直弼がなぜ抵抗しなかったのかが疑問だ と書いている。
それによると、直弼が襲われたのは、屋敷から桜田門の移動中で、
桜田門からわずか六町
(600m)ほどの場所での出来事だったとある。
事件時、カゴに乗っていた井伊直弼の座布団をみると、
「刀で斬られたにしては、血痕はほんの少し」
という風聞も記されていた。
ゆっくりと雲間好奇心がのぞく 竹内いそこ
発見された拳銃
桜田門外の変の一発の銃撃は、当時から噂になっていた。
当時は、潜んでいた
襲撃犯への合図だと思われていたが、
(最近の研究で)この銃撃が直弼に致命傷を負わせたのではないか
という考えが有力になっている。
発見された拳銃は、
なぜか黒船の
ペリーが日本にもたらした拳銃とまったく同型、
表面には美しい
「桜の模様」が全面に彫られ、
純銀製グリップの贅沢な拳銃である。
そこで直弼を銃撃した鉄砲の本当の持ち主について話題になった。
同サイズ―銃のコピーを命じた人物が事件の黒幕なのだ。
薬きょうに鶏のミンチを百グラム くんじろう
浮上したのは御三家のひとつ、水戸藩の
徳川斉昭であった。
斉昭は大名の中でも最も早く
「尊皇攘夷」を唱えた人物で、
色々な兵器を作っており、軍事教練もやっていた。
中には拳銃を制作している部門もあった。
こうした状況から斉昭なら、コピー銃が作ることは簡単。
また斉昭には、天皇家と吉野の桜に対する強い思いもあり、
桜の模様を銃に彫ったのではないかとされた。
反骨のペンは折らない曲がらない 中前棋人
事件直後。
直弼の遺体は藩の屋敷に運ばれ、
お抱えの医師・
岡島玄達が検死した。
遺体には、太ももから腰に弾が貫通した跡があり、
駕籠の間近から発砲たれたものと報告された。
この状況から判断して、森五六郎が直訴状の下に銃を、
隠し持っており、発砲したものだろうと決定づけられた。
この銃撃を受けた直弼は、いかに剣術の達人だとはいえ、
動くことができず、反撃できなかったのだろうとされた。
真ん中を射抜かなければならぬ的 前田咲二
桜田門外の変の一年前にも、直弼を銃撃事件があった。
直弼は2度、銃撃されていたのである。
そのときの狙撃犯も森五六郎であった。
一回目の狙撃は失敗に終わっている。
この失敗を踏まえて、綿密に計画が練られた。
一年前の事件の襲撃グループが残した手紙によると
組織的に正確に襲撃を達成させるため、
各々の役割・配置をしっかりと決め、
その中で、
森五六郎が至近距離から直弼を狙うことが決まった とある。
足組んでひとつの案を産み落とす 青木公輔
変の当日、暗殺計画は筋書き通りに進み、直弼の暗殺に成功した。
浪士18人のうち、即死1人、重傷のため自刃4人、
自首・捕縛11人。
生存者は増子金八、海後蹉磯之助の2人。
襲撃犯は、水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名。
内訳を見ても、
水戸斉昭が主犯であることは間違いないところだが、
捕まった者たちは、誰一人として黒幕の正体を明かさなかった。
森五六郎もまた、銃撃のことは決して語らずして処刑された。
窓際にぽつんとおいてある台詞 山本昌乃
水戸藩が直弼の暗殺に奔ったわけ。
日米修好通商条約は、日本側に不利な不平等条約であったが、
直弼は日本の行く末を考え、勅許を得ないまま、
強引に条約締結へと踏み切ったこと。
もう一つは将軍の跡継ぎ問題である。
時の将軍・
家定に子がいなかったため、
よしとみ
直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の
慶福(家茂)を
14代将軍の座にすえた。
後継候補にもう一人、斉昭の嫡子・
一橋慶喜もいたが、
直弼は慶福のほうが将軍家の血が濃いとして、
慶福を将軍職につけたのだった。
論点がずれてますえと渋いお茶 徳山泰子
これには、
血統を重んじて,徳川将軍家の権威を強化するという意図のほか、
自分の意のままになる若い将軍をすえ、
自身の権力を強めたいという、狙いがあった。
この直弼が行なった強権的な政治は、激しい反発を呼んだ。
とくに不満をつのらせたのが、水戸藩であった。
しかし、幕府の最高首脳が暗殺されたことで、
幕府の権威は大幅に失墜。
直弼襲撃の主力となった水戸藩の急進派は、
幕府打倒を目指していたわけではなかったが、
結果的には、幕藩体制を弱体化させる大きなきっかけを作った。
錆びついた貝殻節を聞かされる 井上一筒
直弼画像
安政の大獄が一段落すると、直弼は自分の姿を絵師に描かせ、
先祖の墓がある清涼寺に収めた。
絵の上に書いた和歌は,その時の気持ちを詠っている。
近 江
"あふみの海磯うつ浪のいく度か 御世に心をくだきぬるかな"
(来た道は怒涛であったが、やるべきことをやった何の悔いも残らない)
直弼が、暗殺計画の密告文に身を守る策を取らなかったのは、
すでに、己の運命を予期していたのである。
息吸うて死にたい息吐いて死にたい 井上恵津子[5回]