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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ボクが乗ると揺れるノアの方舟  田口和代


絹本着色吉田松陰自賛肖像 (画像は拡大してご覧下さい)

幕府から杉家に、松陰を小伝馬町牢屋送りにするという

無情な報らせが届いたのは安政6(1859)年5月、

その知らせは、その日のうちに

松陰の兄・梅太郎から野山獄に収監中の松陰に伝えられた。

そしてその日から毎日のように梅太郎は松陰を励ましに通った。

一方、千代・寿・文の3人の妹は、萩を出ていく兄に、

二度会えないかも知れないという不安な思いを抱きつつ、

「心得になることを授けてほしい」と頼んだ。

それに応えて松陰が作った和歌が、
ならい
" こゝろあれや人の母たる人たちよ  かゝらん事ハ武士の習そ "

「武士の母となる妹たちよ、私のように公のために身を尽くして

   命を落とすことは武士にとって当たり前のことなのだから、

   動じないよう、心していなさい」 と言うのである。

言葉尻揺れて別れの予感する  原 洋志

まもなく、小田村伊之助久坂玄瑞は、江戸に旅発つ前に松陰を
                        ふくがわさいのすけ
実家に帰らせたいと野山獄の獄史・福川犀之助に嘆願する。

松陰の弟子でも会った犀之助は、早速、藩の奉行にかけあい、

出立の前日に一晩だけという条件で、「実家一泊」の許しが下りた。

その実家での最後の夜を、長女の千代が後にこう語っている。

「母が兄に向かって

  『江戸に行っても、どうかもう一度無事な顔を見せてくれよ』

  と申しますと、兄はにっこりとほほ笑みまして、

 『お母さん、見せましょうとも、

   必ず息災な顔をお見せ申しますから、
安心してお待ちください』 

   と事もなげに答えておりました」


隙間には春の序曲を詰めておく  松宮きらり


松陰が最後に入った杉家の風呂

続いて千代の記述である。

「父は申すまでもなく、母も気丈な人でしたから、

   心には定めし不安もあったのでしょうが、

 涙一滴こぼしもせず、


   私共に致しましても、たとえどんな事があっても、

   こういう場合に涙をこぼすということは、

   武士の家に生まれた身として、

   この上もない恥ずかしい女々しいことと考えておりますから……」

松陰の最後の夜における家族の心境を伺いしることができる。

ありふれた午後にひと駅のりすごす  山本昌乃                    


   涙松の石碑

千代が塾生らから聞いた話として、次のような話も伝わる。

獄に戻った松陰がいよいよ萩を出発し、

誰もが国との別れを惜しみ涙流したという「涙松」の峠に

さしかかったとき、松陰もまた、しみじみと故郷を振り返った。

「兄もそこまで参りますと、

  『かへらじと思ひ定めし旅なれば 一しほぬるる涙松かな』

  と詠んだというのです」

松陰が死を覚悟し、それでも実家では母を思い、

振る舞っていた姿が浮かんでくると松陰の心境をが述べている。

塩瀬の帯結んだり解いたり  森田律子


 松陰絶筆

その日松陰は、最も信頼する友であり、寿の夫である伊之助

『至誠にして動かざるは未(いま)だ之有らざるなり』

「自分は、この孟子の言葉を実践しに江戸へ行く。

   ただ幕府の取り調べを受けるのではなく、

   最上の誠の心を尽くして自分の考えを主張し、

   幕府を動かすのだ」

 と決意を述べている。

最上の誠の心を尽くせば、相手を動かすことができる、

そう信じたいと伊之助に伝えた松陰。

困難に何度直面しても、その考えを貫くことが出来たのは、

家族の至誠に一貫して、支えられ続けていたからかもしれない。

雨粒の音はあなたの鼻濁音  雨森茂喜


江戸に送られる松陰との別れの日

左から入江杉蔵、吉田栄太郎、松浦松洞、文、滝、富永有隣、松陰

「松浦亀太郎」

亀太郎は天保8年(1837)、長州藩内で魚屋を営む家に生まれ、

藩士・根来主馬に仕える。
                  むきゅう
号は松洞。名は温古(後・無窮)亀太郎は通称である。
                             はざませいがい
幼少期から絵を描くのが好きで、四条派の羽様西涯に師事。
                       かいせん
絵画を志して京都に赴くと、小田海僊から学んだ。

そして吉田松陰の肖像画を残した画伯となる。

商人の息子ながら政治や世界情勢に感心が高く、

20歳の時、松下村塾に入門。

当時の画家は「漢詩」を勉強する必要があった為に、

松下村塾に学んだが、亀太郎は画家になるよりも、

「尊王攘夷運動」にも参加する志士となった。

五言絶句は歯間ブラシも通さない  上嶋幸雀


奥の町人風が亀太郎

安政5年(1858)江戸に出ると儒学者・吉野金陵の塾で学び、

江戸の情勢を松陰に報告もしている。

9月になると幕吏に従いアメリカへの渡航を試みたが、

叶わず翌年2月に帰国。

安政6年の「安政の大獄」により、

松陰の江戸護送が決定すると、

小田村伊之助の勧めで、松陰の肖像画を描いた。

松陰は複数あった肖像画に、

賛文を書き入れて江戸へ向かったという。

松陰は亀太郎を、

「才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ」

と褒め言葉を残している。

背もたれがときどき欲しくなる此の世  桑原伸吉


絹本着色吉田松陰自賛肖像

久坂玄瑞が高杉晋作に充てた手紙では

「僕は獄におられる先生をのぞき見た。

   からだは痩せて棘々しく、髪が乱れて顔を覆っていた」 

と心配している。

しかし、亀太郎が描いた吉田松陰の肖像画は、

やつれておらず、師への尊敬の念が見受けられる。

このように制作された「吉田松陰自賛肖像」は、

形見として門下生や松陰の家族の元に届けられた。

文久2年(1862)亀太郎は、久坂玄瑞・前原一誠らと上洛し、

公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽を暗殺計画に参加。

しかし、ある人から翻意を促され、京都粟田山にて切腹して果てる。

同年4月13日、松下村塾で最初の殉難となった。

享年26歳。

髭が動いたじいさまの肖像画  井上一筒 

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