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川柳的逍遥 人の世の一家言
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柔らかく小鳥の胸を突くフォーク  岩根彰子

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「源頼朝石橋山旗上合戦」


≪隠れている頼朝を家臣たちが平家方から守ろうとする様子≫

治承4年(1180)4月、この頃すでに蛭ヶ小島の配所を出て、

北条館で生活していた頼朝のもとへ新宮十郎行家から、

以仁王の「平家追討の令旨」が届いた。
 
それから4ヶ月、

深慮の後8月に頼朝は挙兵に踏み切った。

「旗揚げ」の第一戦は、

伊豆目代・山木判官兼隆の討伐と決まった。


(クリックで画像は拡大できます)

やり直すことを新月から学ぶ  竹内ゆみこ

「頼朝挙兵」

北条時政は周辺の武士を結集、

八十五騎余で山木館を夜襲した。

山木館は北条館の東2.5㎞ほどの近距離である。

この夜は、三島神社の祭典で、

山木方は無勢であったというが、

その必死の防戦に、時政らは手こずったという。
 
結局、頼朝の警護で北条館に残っていた加藤景廉

堀親家らが、時政の加勢に駆け付けて山木兼隆を討取り、

初戦はかろうじて勝利で飾ることができた。

逆心もまた良し雨を突っ走る  山本芳男

治承4年(1180)5月26日に、清盛以仁王の挙兵を鎮圧し、

6月2日、行幸という名目で福原への「遷都」を断行した。

しかし、清盛追討を命じた「以仁王の令旨」を、

新宮行家が送達したことが着火点となり、

やがて、諸国で反乱が勃発する。

猿の努力に猿の電車が走り出す  森中惠美子


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   山木館跡の碑

伊豆では、8月17日に頼朝が挙兵し、

同国目代の山木(平)兼隆を討っている。

治承4年(1180)4月27日、頼朝は、

叔父・行家が持参した以仁王令旨を受け取り、

舅の北条時政にも見せた。

≪ちなみに『平家物語』には、

  
文覚後白河院の院宣を持参して頼朝に挙兵を促したとある。

   疑うべき点も多いが、平治の乱以前の後白河天皇の

   側近だったことを考えれば無下に否定できない話でもある≫


人間は裏切るように出来ている  中村幸彦

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8月20日、頼朝は伊豆・相模の御家人を率いて、

伊豆から相模国土肥郷に赴いた。

しかし8月23日、

頼朝は相模国の石橋山で大庭景親以下の

平家被官との合戦に敗れ、箱根山に逃れている。

≪この大庭景親は、関東に住む源頼政の孫・仲綱子を、

  追討するために清盛が私的に遣わした武士であった≫


石橋山合戦で敗れた頼朝は、

8月28日、安房国に逃れた。

その後、頼朝は、上総国、下総国、武蔵国を経て、

10月6日、相模国に入っている。

翌日には、鶴岡八幡宮を遥拝し、

父・義朝の亀谷旧跡に邸宅の建造を始め、

15日に鎌倉御亭に入るのである。

秋雨の破片の傷が痒くって  くんじろう


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「武者鑑 -名人相合 源頼朝」

頼朝は10月16日に福原・京からの追討使・平維盛

13日に駿河国手越駅に着いたと聞き、

駿河に軍を進めた。

かくして起こったのが、有名な「富士川合戦」である。

東国では、

頼朝の伊豆での挙兵と南関東への展開のみならず、

甲斐・信濃・上野といった諸国でも、反乱が起こっていた。

9月には、

甲斐の武田信義、信濃の木曾義仲と次々に挙兵。

頼朝挙兵の報が京都に伝わったのは、9月3日頃であった。

続けて9月6日には、

賊軍500騎と官兵2000騎が合戦し、

賊が山中に逃げたという石橋山合戦の勝報が届いている。

秤をもって離さない落下傘  蟹口和枝

先遣隊ののち、本隊を派遣するという

平氏の軍勢派遣方式が予定され、

東国の大庭等の活躍に続いて、

京でも、9月5日に頼朝追討宣旨を発して、

東海道・東山道の武勇の者を動員している。

追討使は、平維盛・忠度・知度であった。

≪維盛は故重盛の息子、忠度は清盛の末弟、知度は清盛の末子であり、

   宗盛を後継者とする平氏一門では、いずれも傍流と言える≫


軽いとは秤が言うてくれなんだ  井上一筒

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      福原京        

一方の清盛は、厳島や宇佐に赴き、

従来どおり福原への首都移転構想を進めていた。

つまり当初、清盛は、

頼朝の挙兵・東国の反乱問題をあまり、

深刻に考えていなかったのである。

シーソーの一人を連れてきたトンボ  山本早苗

さて平氏は富士川の合戦でなぜ負けたのか?

もともと平氏の軍制は、先述の通り、

少数精鋭で前線の家人が敵を討伐し、

そのあとに追討使の大軍が到着するという

スタイルをとっていた。

しかし、頼朝の反乱軍がここにきて、

予想以上に膨れ上がっていた。

もはや通常の平氏の軍制では、

対応できなくなっていたのである。

ヒゲ剃りの途中で電池切れかかる  谷垣郁郎

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「平家物語」逸話

水鳥の羽音を源氏方の夜襲と勘違いして。

富士川の陣屋を捨て潰走する平家の軍勢。


(はっきり見る場合は画像を拡大してください)

追討軍は10月13日に駿河国手越駅に着き、

16日に同国高橋宿に着いた。

そこで彼等が見たものは、

路頭に懸けられた80余の首だった。

というのは、10月14日に駿河目代・橘遠茂が、

長田入道を率いて甲斐に攻め入ったが、

鉢田で武田一族に迎撃され大敗を喫していたのである。

つまり、屈強な前衛部隊は、

追討使が到着する前に殲滅させられていたのだ。

どこで縺れたのか毒リンゴ貰う  前中知栄

これが官軍の士気を大きく下げることになった。

平氏の陣に謀反の輩から牒状が送られてきたが、

子細を糺問したのち、使者の首を切った。

その後、頼朝が襲来するとの風聞があり、

彼等の軍勢が巨万であるのに対して、

追討軍の軍勢では敵対できそうになく、

引き返そうとしたところ、手越の宿館に矢火があった。

近江から東国にかけて動員した兵が、

官軍の弱さを見て逐電し、

残ったのは、京から下った兵のみであった。

断捨離から始まる墓場までの時間  荻野浩子

のこる官軍は、わずか1000~2000騎。

これではまったく勝ち目がない。

「官軍として断固戦うべし」と主張する維盛に、

伊藤忠清は撤退を説得した。

退却を考え始めたところへ、

多数の水鳥が富士川から一斉にいい飛び立った。

その羽音に驚き、

敵襲と錯覚した平氏軍は潰走してしまう。

この敗北は、清盛が後白河院を幽閉して成立させた

平氏政権の権威を崩壊させてしまった。

いい訳のところどころで座礁する  高島啓子

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