ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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覚馬捕縛
点滅の止まらぬ古い非常灯 安土理恵
京都二本松薩摩藩邸跡
「覚馬の捕縛」
慶応4年
(1868)
1月3日、
鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、薩軍が待ち受けて、
一斉射撃を加えた。
桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、反撃を試みるも敵に圧倒され、
壊乱する。
また伏見街道でも、
会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。
会津藩大砲奉行の
林権助
らが必死の砲撃で反撃し、
佐川官兵衛
は
土方歳三
ら新選組と共に斬り込みをかけるが、
劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。
目から目へ赤信号が送られる 杉野恭子
旧幕府軍は
淀城
に退却した上で、迎え撃とうとする。
しかし淀藩は、譜代藩で藩主が現職老中であったのに、
新政府側に寝返り、入城を拒否。
さらに山崎に布陣していた藤堂藩の兵が、
淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。
ここに至り旧幕府軍は、敗走せざるを得なくなった。
プロローグ あっという間のエピローグ 山口美千代
この戦いで会津藩の砲兵隊は、
死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。
大砲奉行の林は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、
江戸に退却する途中の船上で落命。
また覚馬の弟・
山本三郎
もこの時の戦傷により、
江戸に帰還後、死去した。
葬送の列は兵馬俑まで続く 古田祐子
この時、失明していた
覚馬
は、戦いに参加できなかった。
会津藩士たちが大坂へ去った後も、
京都に留まって洋学所の塾生たちに教授を続け、
戦争勃発後の4年1月9日、
覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられ、獄舎の人となった。
撫で肩で未来がすべり落ちていく 河村啓子
赤松小三郎
当時、赤松は薩摩藩に招聘されていた折、
「幕薩一和の端を開く」
ため、
西郷隆盛や会津藩の公用方と談じ合っている。
その会津藩の中に覚馬もいた。
赤松は国の未来を憂いながら、志半ばで斃れてしまうが、
彼の残した建白書は、覚馬に多くの影響を与えたといわれる。
覚馬が収監されていた獄舎に会津野沢村出身の
、
斎藤瑛斎
という16歳の少年がいた。
瑛斎は慶応3年2月、洋学修業で長崎へ向かう途中、
覚馬から会津藩洋学所での修業を勧められた。
鳥羽伏見戦争の最中、書籍取り纏めを命ぜられて、
洋学所にいるところを捕えられて、拘留されたのだ。
意外な場所でゆかりの少年に再会した覚馬は、
天佑と思ったかもしれない。
世の中はそうでないとも そうだとも 藤本秋声
覚馬はすでに病で光を失っていたため、
信頼できる瑛斎に重要な口述筆記を依頼した。
まず覚馬は3月に、
「時勢之儀二付拙見申上候書付」
と、
題する上書を編んだ。
謙譲の姿勢で、新政府への陳謝の意を綴ったものだ。
前年6月に
「万事一洗」
、すなわちこれまでの軋轢を水に流し、
諸藩一致で国難に臨むべきと
赤松小三郎
を通じて
西郷
らに提示し、理解を得ていたと記している。
さらに覚馬は6月までに、
新政府に向けた一編の建白書を策定した。
『管見』
である。
キリストと同じところに泣きぼくろ 井上一筒
[4回]
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y2013/06/08 09:30 z
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