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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 ドラマ以上のドラマ切り取るカメラマン  美馬りゅうこ

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白河口合戦絵図ー1

(画像クリックで拡大されます)

「白河城の戦い」

奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が斬られた
          ふっきょう
その日の払暁、会津藩は、

新選組の斎藤一ら先鋒軍を差し向けて白河城を攻撃。

意を通じていた守備側の二本松兵は、

防戦の構えだけ見せて早々に退却した。

さらに、慶応4年4月23日には、

白石城で第二回の列藩会議が開かれ、

薩長の横暴を糾す方針が合意される。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

慌てた西軍は二日後の25日、宇都宮から大田原まで、

進出していた軍勢を白河に差し向けるが、

会津藩はこれを撃退し、大いに意気を上げた。
            そ ご
だがここで齟齬が発生する。

西軍を撃退した翌日、

会津藩の白河口総督・西郷頼母が白河城に入城し、

さらに仙台藩なども加わって総勢2500の軍勢となるが、

方針を巡り意見の対立が起きてしまうのである。

ぶらんこのきしみ気管に押しあてる  榊 陽子

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    西郷頼母句

新撰組隊長の斎藤一らは、

城から兵を出して「戦術的要衝を押さえる策」

を献策したが、総督の頼母はこれを却下。

「城で待ち構える方針」を決めたのだ。

鳥羽・伏見以来の連戦を経験し、

西軍の火力を知り尽くしていた斎藤らに対し、

頼母は実戦経験がなかった。

このことが重大な結果を招く。

一瞬をよぎる碧を盗まれる  山口ろっぱ

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    白河小峰城

5月1日、薩摩の伊地知正治が率いる西軍700が

白河城への攻撃を開始する。

会津藩及び奥羽諸藩(東軍)が兵力を城内に

止めていたため易々と進撃した西軍は、

軍を3つに分け、本隊で中央突破するように見せかけつつ、

残りの2軍で城近傍の2つの山を奪取し、

東軍を包囲殲滅することを狙った。

これに対し、

頼母は戦力を逐次投入し、被害を拡大させてしまう。

その間に西軍は、地元民に兵を誘導させて迂回路を進み、

要衝を悉く手中に収めた。

そこからの西軍の猛烈な攻撃により、東軍は総崩れとなる。

消しゴムのカスから零れ出る吐息  下谷憲子

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     西郷頼母筆

頼母は兵を叱咤激励するも、潰乱を止めることができない。

わが身だけでも敵陣に突入しようとするが、

部下から「総督はいまここで死ぬべきではない」と、

諫められ、後退せざるをえなかった。

結局、会津藩の副総督・横山主税、

仙台藩の主将・坂本大炊軍監・姉歯武之進

指揮官クラスが多く戦死し、

700もの兵を失うという大敗北を喫してしまうのである。

 姉歯武之進=世良を襲撃した人物

廃液の波に呑まれた尾骶骨  皆本雅

白河口の戦況は、その後もはかばかしいものではなかった。

5月1日の敗北から2ヵ月、

東軍は白河城への攻撃を繰り返すが、

奥羽諸藩の連携不備もあり、遂に奪還できずに終わる。

この間、日光口方面から転戦してきた板垣退助が、

白河城に着陣するなど、西軍の兵力は増強された。

また、5月15日には上野寛永寺に籠った彰義隊も敗北し、

新政府は援軍を海路で平潟港に送り込む。

6月16日に上陸した西軍は、

磐城平藩や相馬藩などを下し、仙台藩に迫った。

7月26日、この情勢を見た三春藩が西軍に寝返ってしまう。

胃袋を掴まれたならもう終り  蟹口和枝

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                少 年 隊

これにより、西軍は一気に攻勢を強め、

7月29日には二本松藩に迫った。

しかし二本松藩は、

主力軍を白河方面などに出兵しており、

老兵少年兵で西軍に立ち向かうしかなかった。

条件をみんな呑んでも風ぐるま  山本早苗


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    木村銃太郎

二本松藩(丹羽家)尚武の気風を誇る藩であり、

砲術師範の木村銃太郎が率いる少年砲兵隊20数名、

また二本松少年隊数十名もこの戦いに勇躍臨む。

彼らは新式銃を持ち、錬度も士気も高く、

敵に衝撃を与える。

だが、衆寡敵せず、やがて木村銃太郎は被弾。

少年たちは泣く泣く師を介錯した。

そして少年たちも、一人また一人と斃れていく。

(続きがあります。よろしければ「続きを読む」をクリックして下さい)

運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子
ちょいちょいと青龍刀でみじん切り  中村幸彦

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  白河口合戦絵図ー2

「やられてばっかりではない東軍、日光口、越後口では奮戦をしている」

西軍は、会津に対し、主に白河口、日光口、

越後口の三方向から迫った。

宇都宮の戦いで敗れた旧幕軍・大鳥圭介らは、

会津藩の山川大蔵らの支援を受け、

再び南下し、今市の攻略をめざした。

だが、ここを守る西軍の板垣退助に阻まれ、

5月6日の戦闘で大きな打撃を受けてしまう。

山川や大鳥は会津西街道の藤原まで兵を引き、

峻険な地勢を活かして陣を構築した。

※ 今市=会津西街道と日光街道の入り口

結局は二割のアリの列に居る  笠原道子

板垣は会津側が守勢に入ったことから白河口へと転戦。

佐賀藩を中心とする西軍が日光口突破を図るが、

山川・大鳥らはこれを撃退する。

以後、日光口は若松城下に敵が迫って、

山川が退却せざるを得なくなるまで破られなかった。

喝、活、勝、そして空想から抜ける  福尾圭司

一方、越後では4月末から長岡藩、

会津藩(佐川官兵衛・一瀬要人)などが戦っていた。

家老・河井継之助によって軍備を調えていた長岡藩の奮戦や、

名将・立見鑑三郎率いる桑名藩の活躍もあり、

この方面では、長州奇兵隊参謀の時山直八を戦死させるなど

西軍を苦戦に陥れ、7月24日には、

一度は西軍に奪われた長岡城の奪還に成功する。

二転三転三角定規丸くなる  都司豊

だが、この戦いで河井継之助は負傷。

さらに新発田藩の西軍への寝返りなどの情勢悪化を

支えきれずに、ついに8月初頭、

会津に後退せざるをえなくなる。

官兵衛は若松城に戻り、

継之助は8月16日、傷の悪化により陣没するが、

一瀬要人らは、若松城下に敵が迫るまで、

津川周辺で防衛戦を続けた。


海見えて来たら私の降りる駅  岡本なぎさ

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