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川柳的逍遥 人の世の一家言
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そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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徳川慶喜ー隠れ家

(各写真は画面をクリックしてご覧ください)

「彰義隊」

慶応4年(1868)2月11日徳川慶喜は、

鳥羽伏見の戦い後、新政府に恭順の意を表し、

上野寛永寺に蟄居を命じられる。

12日、これに憤慨する一橋家ゆかりの者ら17名が、

酒楼・「茗荷屋」に集まり、

慶喜の復権や助命について話し合いが行われた。

21日の会合では、一橋家幕臣の渋沢成一郎が参加し、

また諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士らが参加している。

そして23日、「尽忠報国」を掲げ、

浅草の東本願寺で「彰義隊」が結成される。

結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、

町人や博徒や侠客も参加し、

隊は千名を越える規模になった。

(布陣は頭取・渋沢成一郎、副頭取・天野八郎、幹事本多敏三郎伴門五郎

真っ新な息を揃えて貝割れ菜  岩根彰子

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  徳川慶喜ー隠れ家

慶喜が水戸へ移った折、勝海舟は武力衝突を懸念して、

彰義隊の解散を促すが、隊は徳川家霊廟守護を名目に、

寛永寺に居残った。

その後も、明治新政府軍と一戦交えようと各地から、

脱藩兵が参加し、

最盛期には3~4千人規模に膨れ上がっている。

渋沢は慶喜が江戸を退去したため、

「彰義隊も江戸を退去し日光へ退こう」

と提案したが、天野八郎は反対、

江戸での駐屯を主張したため将棋隊は分裂する。

渋沢が彰義隊を去り彰義隊は再編成を余儀なくされる。

≪この後、天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため、

   渋沢は一時姿を隠していたが、

   同志とともに飯能の能仁寺で「振武軍」を結成している≫


見込みある男飛び出す土砂降りへ  柴本ばっは

江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、

彰義隊隊士の手で、

新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。

事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、
                                                   かくおういん ぎかん
慶喜の警護役の幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の覚王院義観

会談させ、彰義隊への解散勧告を行った。

しかし寛永寺執当職・覚王院義観は説得に応じない。

仲裁が入り話がなおこじれ  上田 仁

新政府側は、5月1日、

彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告する。

同時に彰義隊に江戸警備の任務を与え、

懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、

また東征軍の西郷隆盛から、職務上の権限を取り上げ、

彰義隊を討伐する方針を決定した。

西郷に代わる統率者として、大村益次郎を着任させ、

新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。

これにより、彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発する。

かくして軍務局判事・大村益次郎の指揮で、

14日に、彰義隊討伐の布告が出される。

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      上野戦争

上野戦争は戊辰戦争のひとつに数えられ、

戦いの戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名といわれる。

渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、


行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

浮雲の視点は鳶の油揚げ  坂田喜久子

「上野戦争へ」

慶応4年5月15日、大村益次郎が指揮する政府軍は、

寛永寺一帯に立て籠もる彰義隊を包囲し、

午前7時、雨が降る中、

両軍は南西北三方向で戦闘が開始される。

南(寛永寺黒門口)に薩摩藩、北側背面は長州藩があたり、

西はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩があたった。

午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩・卍隊の

激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に会い、

戦況は一進一退の状態が続いた。

最前線はインプラントの部隊  井上一筒

午後に入ると大村は伝令を呼び、
         アームストロング
「あるむすとろんぐの大筒。もはやよろしかろう」

と加賀藩邸の鍋島監物に伝えさせた。

そして射程距離の長いアームストロング砲の砲弾が、

敵陣に着弾し始めると、

形勢は一気に逆転、残る半日で上野戦争の決着はついた。

アームストロング砲の威力に関して、藩主・鍋島直正は、

「威力猛烈なるをもって、攻城や海戦ならばともかく、

  内乱のために用いるならば人を殺傷しすぎるゆえ、

  望ましきことにあらず」


と考えていたという。

着地点は真っ赤な押しピンで印す  本多洋子


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     彰義隊墓所

彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、

政府をはばかって彰義隊の文字はないが、

旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

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