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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一匹の秋刀魚抜き身のように下げ  菱木 誠



日本橋魚市繁栄図
様々の魚介をたらいにのせた魚売り、棒手振、漁師らが走りまわる。


近年不漁が続く秋の味覚サンマが、今年も深刻な漁獲不漁に陥っている。
海水温の上昇、周辺国の乱獲が原因とみられ「大衆魚のはずが、高級魚に
なっている」と庶民の嘆き節が聞こえるほどに価格高騰で家計に影響を及
ぼしている。

「サンマの小咄」
昔の御身分の高い方々は、下々の庶民の生活はご存じありません。
ですから常々少しでも知りたいと思っております。
天候に恵まれた初秋の日。
お殿様がご家来を連れて、目黒不動参詣をかねて遠乗りにでかけました。
目黒に着かれたのは、お昼近くのことでした。
近くの農家から、秋刀魚を焼くいい匂いが漂っております。
その時、ご家来が
「かような腹ぺこの折りには、秋刀魚で一膳茶漬けを食したい」
といったのを聞きつけたお殿様、
「自分もぜひ秋刀魚というものを食してみたい」とご家来に所望した。
さんまが走ると大根まで走る  樋口百合子


さぁ困ったご家来衆。
「秋刀魚とは下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚
ではございません」
といったものの、お殿様のお言いつけではしかたがない。 
何とか農家のお爺さんに頼んで焼いた秋刀魚を譲ってもらうことにした。
お殿様は、生まれてはじめての秋刀魚がすっかり気にいられた。
お腹が空いていたことも合わさって、忘れられない味になってしまった。
ところが屋敷に帰っても、食卓に秋刀魚のような下魚は出てこなかった。
ある日のこと、親戚のお呼ばれでお出掛けになりますと
「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。
なんなりとお申し付けくださいまし」
というご家老の申し出に、お殿様、すかさず秋刀魚を注文した。
不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁

親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。
このように脂が多いものをさしあげて「もしもお体に触っては一大事」
と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった
秋刀魚を出した。
「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか?
たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」
脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚が、おいしいはずがありません。
「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」
「日本橋魚河岸にござります」
「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」

冗談のような A から C でした  きゅういち



多数の棒手振りの商人の行き交う日本橋



「江戸の景色」 庶民の家計から江戸っ子のマネー事情


江戸っ子の住いといえば、九尺二間の裏長屋が定番だが、
その簡略で粗末な住居が象徴するように、生活は決して楽ではなかった。
「宵越しの金は持たない」と気風(きっぷ)のよさが喧伝される一方で、
収入は少なく、経済的に不安定な生活を余儀なくされていた。
そんな江戸っ子が従事した職業といえば、「大工や左官などの職」や
「天秤棒を担いだ魚売りや野菜売り等の棒手振」が代表的なものだろう。
その大工と棒手振の家計事情を『文政年間漫録』の史料から見てみよう。

床板をずらしてへそくり確かめる  杉浦多津子



        仕事中の大工

「大工職人の家計」
大工は誰でもなれる職業ではない。いわば専門技術職であるから、
江戸っ子の中では高い収入を取っていたほうである。
熟練度にもよるだろうが、その日当は、銀四匁二分。
食費として別に一匁二分が支給された。
都合五匁四分であり。金一両が銀六十匁とすると、1両を今の相場の
10万円に換算すると1万円弱となる。
ただし毎日仕事があるわけではないから、年間実働294日とすると、
年収は294万円ほどである。
支出はどうか、妻子の3人暮らしの場合で。
家賃百二十匁、米代三百五十四匁、塩・味噌・醤油・薪・炭代が七百匁、
道具・家具代・衣服代が各々百二十匁、知人・親戚との交際費が百匁、
計一貫五百十四匁、手許に残るのは七十三匁六分。
わずか10万円ほどに過ぎない。

コンニャクは何枚だろう紙袋  合田瑠美子



   野菜売り


「野菜売りの棒手振商人の場合」
1日の売り上げは、千二百~千三百文。
金一両が銭四貫文(四千文)とすると、3万円強となる。
原価が六百~七百文だから、一見大工よりも割がいい。
しかし翌日の仕入れ代に加えて、米代二百文、味噌・醤油五十文などを
支出していくと、百~二百文しか結局、残らない。
さらに翌日が雨ならば仕事は出来ず収入はゼロ。
棒手振商人の場合、大工のような専門技術は必要とせず、少しの元手が
あれば誰でも始められたが、手許に残る金額は僅かだった。
そのため、本来の生業の他にも、別の仕事をする必要があった。
ここには病気や怪我などの急な支出は入っていない。また火事や何らか
の災害に合うと、たちまち生活困窮者の転落するのだ。

メインディッシュの丸干しが灰になる  山本早苗



  大工上棟の図


「気分を変えて、ある大工の棟梁の1日を追う」
江戸ではひと冬に大小あわせて100件以上の火事があったという。
この被災後の復興工事が頻繁に行われていたから、腕さえあれば仕事は
いくらでもあった。
大工の仕事は、現在の午前8時頃から始まるので、間に合うように家族
に見送られて家を出る。そして午前10時頃に30分位の休憩。
その後仕事を再開して正午頃昼食となる。妻が持たせた弁当があり、
これを食べるが、なくても外食産業が発達しており、困らなかった。
昼食後仕事にもどり午後2時ごろにまた30分ほどの休憩を取る。
その後、日が暮れるまで働いて、1日の仕事が終わりだ。


風よ雲よみなレジェンドの羽になる  桑原すゞ代




材木屋の店先で材木購入の算段をする場面


一方、息子と娘2人は朝、手習に出かける。
息子の方は父親のような大工の棟梁になるのが夢だ。
大工も棟梁になるのには、指図(図面)が引けなければならない。
木材の調達や手配する大工の手間賃の計算などもあり、
読み書き算盤も必要とされた。





赤子のお守や掃除・洗濯に勤しむ長屋の女たち
妻は洗濯などの家事に忙しい。
といっても衣類は1人につきわずか数枚、住んでいる所も四畳半の部屋に、
土間と台所が付いている程度なので掃除もすぐに終わる。買い物も日常的
に使う物ならば物売りたちが家のすぐそばまで売りにくるので、買いに出
かける必要がない。昼には子どもたちが帰ってきて、お腹が空いたと騒ぐ。
娘の方は、武家屋敷の奉公に上ることを夢見て、このあと三味線と踊りの
お稽古だ。多少月謝が高くても、武家屋敷へ奉公にあがればよい縁談が舞
い込む。
父親が仕事から帰ってきたら子どもたちは父親と湯屋に行き、その後、
家族そろっての夕食になる。
日が暮れたらすることがないので、さっさと寝てしまう。

夢を縫うパステルカラーの刺繍糸  中岡千代美




  日本橋ー魚市全図
「次は、ある棒手振りの魚売りの1日」
とある独身男性、彼の仕事は、棒手振りと呼ばれた魚売り。
棒手振りは僅かな元手で始められる商売で、地方から江戸にやってきた
人たちでも出来る仕事だった。
高利ではあるが、「朝借りてその日の夜には返す」という、金の借り方
もあったので、元手がなくても出来る商売であった。
魚売りの朝は早い。夜明けには河岸が開く。
それまでに行かなければよい魚は仕入れることが出来ない。


金魚鉢ほどの広さで泳ぐ日々  靍田寿子



お得意の待つ広場で魚を捌く棒手振り


日本橋の魚河岸は有名だが、そのほかに落語「芝浜」にでてくる雑魚場
(ざこば)と呼ばれる魚河岸があった。仕入れた魚は、お得意の処へ持
って行って売り捌く。
行く時間はだいたい決まっているので、客の方が待っていてくれる。
江戸では魚屋が用途に応じて捌いてくれるから、魚が捌けなくても十分
主婦業はこなせた。夏の日の長い時期には、夕方にも市が立つので、
早い時間に売り切ってもう一度仕入れて売りに出る者もいた。
日が暮れる前に売り切れるか、売り切れなくても商売は終了する。


魚の目が探り入れてる足の裏  上山堅坊





仕事が終われば、独身の身軽さで外食するのもいいし酒を飲むのもいい。
酒は酒屋から買って飲むが、家まで持って帰るまで我慢できずに
店先で飲むこともあったようだ。
また吉原を冷やかす者もいただろう。吉原で花魁遊びするのは、棒手振り
稼業では無理だが、原の中には安く遊べる店もあった。
もっとも江戸ではたくさんの若い女性を見られるところは少ないので、
その姿を見るだけでも十分だったかもしれない。

酔うて寝る半端な夢を見ないよう  美馬りゅうこ



「江戸小咄ー初鰹」 
棒手振りが初鰹の声、威勢よく売ってくる。
「あゝ買いたいものだが、銭がない。せめて呼んでみよう」
と大きな声で
「鰹やい 鰹やい」 
と呼べば、棒手振りが寄って来て
「今、呼んだのはお前かい」
と桶をおろせば、声の客、
「どりゃ見てみようかい。ウゝ初鰹じゃ、なァ塩鰹はないかのー」
見るのは初鰹。買うのは安い塩鰹。
売れ残った鰹は、保存のために塩気をまぶし、塩鰹になる。
その時点で安くなる。
また鰹とは偉い奴である。色々な名前もあり、夏にも秋にも季語になる。


そのうちを入れこんでおく追い鰹  山本昌乃

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息子よ 父の万年筆だよ 体温だよ  本田洋子


 (画面をクリックすると拡大されます)
卯 の 花 月  (豊国画)
ちょいといなせな魚屋さんに皿を持って群がる女房たち


「江戸の風景」  江戸っ子と粗忽長屋


「江戸っ子」という独特の市民が広汎に成立したのは、18世紀中期以降
のことである。
江戸っ子とは、江戸言葉を話す江戸根生い(生れ生い育った土地)の人び
とのことであり、初期の江戸では伊勢商人、近江商人など上方の有力商人
の江戸店が江戸の取り仕切っていた。
彼らは江戸生活者ではあったが、江戸っ子とはいえなかった。
ところが木場・魚河岸・日本橋・神田・蔵前などに初期以来、住みついた
町人たちが中期になると、社会・経済の中核として成長してきた。
明和8年(1773)の川柳に、「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ
(騒がしいさ)というのがあり、これが出自とされる。
さらに2年後の安永2年に、「江戸っ子の生まれそこない金を持ち」
「江戸っ子にしてはと綱はほめられる」などの用例が洒落本・黄表紙など
に散見するようになる。つまり文芸・演劇・浮世絵・遊郭の遊び、様々な
趣味でも、主役として江戸文化を引っ張ったのが江戸っ子だったのである。


何も足さずまた引かないというおしゃれ  柳川平太




山東京伝煙草店 (暖簾右下に京伝名が見える)



「江戸っ子とは」と、山東京伝は次のように定義付けている。
① 江戸城徳川将軍家のお膝元に生まれ、
② 宵越しの金を使わない
③ 乳母日傘で成人し洗練された高級町人で
④ 市川団十郎を贔屓する「いき」と「はり」とに男を磨く生きのよさ
⑤ 洒落たキセルで煙草を格好よく燻らせる男 
というのはありませんが、因みに、戯作者として有名な山東京伝は、
寛政5年(1793))書画会の収益を元手に銀座に「粋な男を作る男
の持ち物として」タバコを売る店・京屋伝蔵店を開店、自らもデザイン
した本革素材の煙管を売って儲けたという話は多くの人の知るところ。
煙草入れは粋な江戸っ子の代表的な装身具だった。

100人そろって煙草を吸っている  酒井かがり



黒桟留革提げ煙草入れ


金唐革一つ提げ煙草入れ


   
金唐革腰差し煙草入れ ①  金唐革腰差し煙草入れ ②


主に大名が用いた「御殿形煙管」
上) 折入角紋散らし彫り  
下) 竹に千成瓢箪彫り


ふんわりと浮いたら免許皆伝だ  新家完司



魚売一心太七 市川左団次


  
「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」
式亭三馬の「浮世床」「江戸っ子は宵越しの銭は持ったことがない」
という表現がある。
これは江戸後期(19世紀)に出現した江戸っ子の美意識であるが、
安永3年(1774)の頃の「江戸っ子の生まれそこない金を持ち」
川柳がいうように18世紀中ごろには、すでに金離れがよく物事に執着
しない江戸時代に共通する江戸っ子たちの美意識の精神があった。
当時、金を貯めようとしても、現在の銀行に相当する両替商は、預金に
利子などつかなかった。むしろ手数料を取った。
 江戸は火事が多く、金を貯めても火事で灰燼に帰してしまうことを経
験で知っていた江戸根生いの商人たちは、金を貯めるよりも商売仲間や
地域との関係や社会的信用を大切にし、そのために金を使った。
また歌舞伎に行ったり、遊郭に出かけたり、俳諧・川柳・狂歌などを作
ったりなどに金を惜しまなかったのである。
だからこそ江戸文化が花開いたのである。


在るようで無い ないようでやはりない  嶋沢喜八郎



一方、江戸文化を楽しんだ長屋の住人は、身体さえ壊さなければ仕事は
江戸で常にあった。彼らには定年などはなく、今よりはるかに短命であ
ったので老後の不安を持つ暇もなく死を迎える。だから老後の蓄えなど
あまり考慮しなかった。
むしろ長屋での常日頃の人間関係にこそ大事にした。
そのためには冠婚葬祭、病気、火事見舞いなどに金を惜しんではいけな
かったのである。
つまり「宵越しの金を持たない」とは、実は自分のために贅沢をすると
いうだけの意味ではなく、一緒に生きている他人のためにも金を使って
しまうという意味なのである。
それが巡り巡って自分も生かすことになる。
江戸っ子にとってサバイバルであり、最後は自分に返ってくるという考
え方なのだと江戸研究者は分析している。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花




菰の下の行き倒れは誰なのか


落語・「粗忽長屋」 気風のいい江戸っ子はそそかしい。


同じ長屋に住むそそっかしい八五郎と熊五郎は隣同士で兄弟分。
ある日、八五郎は浅草観音に参り、雷門を出た所で黒山の人だかりにぶ
つかる大勢の野次馬の股ぐらの間をくぐって見ると、これが行き倒れで、
菰をめくって見ると熊五郎だ。
「熊の野郎、今朝寄った時にはぼんやりしていて、ここで行き倒れて
いるのも気がつかねえんだ」
世話人が " この人は昨日の夜からここに倒れているんだ " と言っても八
五郎は納得しない。ついには本人をここに連れて来て、死骸を見せて引
き取らせると言い出し、世話人の言うことも聞かずに、長屋の熊五郎の
家に行く。そして熊五郎に " お前は昨日、浅草で死んでいるというが
熊は死んだ心持ちがしない " という。昨夜のことを聞くと " 仲(吉原)
をひやかし、馬道で飲んで酔っ払い、その先はどうやって長屋に帰った
か分からない "
  という。


でこぼこを埋めるでこぼこの片割れ  清水すみれ



「お前はそそっかしいから悪い酒に当たって、死んだのも気づかずに
帰って来ちまったんだ」
「そう言われてみると、今朝はどうも気持ちがよくねえ」
八五郎は半信半疑の熊さんを引っ張って、死骸を引き取りに現場に戻る。
野次馬をかき分けて、
「おう、ごめんよ、ごめんよ、行き倒れの本人を連れて来たんだ、
どいてくれ、どいてくれ」
行き倒れを見て
「ああ俺だ、なんて浅ましい姿になっっちまったんだ」
なんて調子だ。あきれ返る世話人を尻目に八さんは、本人が引き取って行
くと言って熊さんに死骸を抱かせる。
「兄貴、わからねえことが出来ちまった」
「何が」
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」



一生に二度は乗れない霊柩車  櫻田秀夫

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居酒屋の壁にぐじぐじ独り言    新家完司



「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商う図」
江戸最古の居酒屋神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋では、一杯の酒と田楽が
二文で売られ、行商人、日雇い、船頭馬方、奉公人で賑わった。
(尚、豊島屋は慶長元年(1596)の創業で、現在も東京都千代田区
猿楽町に本店を置いて事業を続けている)



「江戸の風景」 居酒屋・屋台……川柳で綴る

庶民が気軽に腹ごしらえ、あるいは気晴らしの飲食に利用したのが、
いわゆる「居酒屋」である。
居酒屋は、酒の小売店が一杯酒を飲ませたのが、そもそもの始まりで、
「居ながら」飲むことに由来する。また、さまざまな煮しめなどを売る
煮売り屋が、酒も飲ませる「煮売酒場」となり、ここでも居酒屋の客と
同じ風景が、数々の川柳に詠まれている
煮売屋へなんだなんだと聞いて寄り
黒鯛をたてもににする煮売店
居酒屋でねんごろぶりは立って呑み
※ 常連客が店を覗いて「今日の魚はなんだい?」と亭主に訪ねる。
それまでもなく、立物(目玉商品)は「黒鯛だよと看板にあり」、
その横では鮟鱇が、自慢げに軒につらされている。


気分屋の鬼と半身で呻る酒  上田 仁



酒や簡単な料理を出す煮売り屋の様子が描かれた絵


煮売り屋でつまみ食いするあぶら虫
居酒屋で止めた子細は革羽織
居酒をば仕らずともむごく書き
※ 油虫とは、無銭飲食をするやから。革羽織は、鳶の頭や職人の棟梁
らがよく着るが、ときにはならず者が、こけおどしに着ることもあった。
いわゆるやくざっぽい男が着る定番の革ジャンである。
そんな連中に出入りされると、しだいにほかの客の足が遠のき、
やがてはあ閉店においこまれる。つまり「仕らず(つかまつらず)」
つまり商売にならず店仕舞いに追い込まれるのである。


赤鼻のトナカイの前足の煮こごり  酒井かがり




居酒屋は鰓(えら)を吊るすを見栄にする
鶏の羽衣居酒屋の軒にさげ
お手前らあんどんの燗酒知るめえが
※ 店先の軒の下には、酒の肴の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下
げており、どのような魚が店にあるかを知らせていた。
注文とともに日本酒に燗ををつけるのは、江戸時代からの食文化である。



真夜中の湯割りに浮かぶお釈迦様  中川隆充



江戸庶民の食事処
絵の左下にチロリがみえる。
チロリとは酒を温めるのに使う銅や真鍮製の筒型の容器。



八文は味噌を片手へ受けて飲み
有りやなしやと振ってみる角田川
徳利は井戸へ身投げの冷やし酒
※ 居酒屋で酒の肴といえば、田楽豆腐をはじめ、湯豆腐、ふぐ汁、
スッポン煮、あんこう汁、マグロの刺身、そして鍋物のネギマや野菜、
軍鶏の鶏鍋など、豊富なものだった。
その酒の肴は、お膳、折敷という低いお盆のようなものに器をのせて
床や床几の上において座って飲食をした。
酒は徳利でなく、「チロリ」という容器に酒を入れ、銅壺で湯煎して
温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を注いで
飲んでいた。


ビールの泡を美味しく飲ませる備前焼 靍田寿子 



  近江居酒屋



つまるところ酒屋のための桜咲く
薬代を酒屋へ払う無病もの
酒樽もすでにさいごのいきづかい
※ 居酒屋をはじめ、飲食店の繁盛はめざましかった。
「岡田助方の風俗随筆『羽沢随筆によれば、
「凡そ都下に、食類を商う店の多き事。わずかに2、30年以来なり。
近き頃、何れよりか赤坂池のほとりに、市店が移されしが凡そ3、4町
が程、終に字して、赤坂食傷町(グルメ街)と唱う」とある
寛政7年(1795)には、江戸の酒の消費量が93万樽に達し、文化
8年には1808軒の居酒屋があったという。
(これは今日の酒場・ビアホールの割合とほぼ同じである。そんな中、
安政3年に江戸下谷に「居酒屋・鍵屋」が誕生。今もその建物が小金井
桜町に「江戸東京建物園鍵屋」として残り、見学ができる)



聞き役が酔ってしまってごめんなさい  新川弘子



 
   酒のみ道



「おまけの10句」
たいこ医者お燗の脈をみるばかり
 小判にて飲めば居酒も物すごし     
二日酔い飲んだ所を考へる
ぼた餅をこわごわ上戸ひとつ食い
神に下戸なし仏には上戸なし
忍ぶれど色に出にけり盗み酒
神代にもだます工面は酒が入
剣菱も百万石もすれ違い
酔覚めの水のうまさや下戸知らず
禁酒して何を頼りの夕しぐれ



満開の屋台に寅さんがひとり  桑原伸吉



※ 江戸期に誕生した居酒屋には、二つのルーツがあったという。
「茶屋/煮売茶屋と酒屋」だ。古くから街道沿いで団子などの軽食や
お茶を出していた茶屋が、江戸期に芝居茶屋や料理茶屋へと進化。
一方では明暦の大火からの復興需要で、爆発的に増加した人口を
養うために発展した煮売屋台が登場。ファーストフード的に手軽な
煮物や焼き物と茶や酒を提供したものだったが、これが常態化して
煮売茶屋へと変化し、店舗数を増やしていった。



ポイ捨ての種から百の物語  合田瑠美子



高輪廿六夜待遊興の図
江戸高輪の月見の様子が描かれている。
右から、氷菓子屋、寿し屋、水売屋、焼イカ屋、天婦羅屋、
二八蕎麦屋、麦湯屋、団子屋、汁粉屋、などの屋台が並んでいる。



「屋台」
居酒屋より、いっそう身近で簡便な存在が「屋台」である。
「屋台見世は、鮓・天婦羅を専らとす。その他皆食物の店のみ也。
鮓と天婦羅の屋台見世は、夜行繁き所には、毎町三四か所あり」
『守貞謾稿』とあり、「天婦羅の味方に夜鷹蕎麦屋つく」の句があり、
相性のよさから、寿し・天婦羅に蕎麦を加えて「三大屋台」といった。



どこ行った天六角のたこ焼屋  雨森茂樹



下卑た風鈴湯気のたつ上でなり
客二つ潰して夜鷹三つ喰い
※ 蕎麦売りの屋台には、よく風鈴が吊るされていたところから
「風鈴蕎麦」といい、夜鷹と呼ばれる下級の女郎に親しまれていたので
「夜鷹蕎麦」といった。夜鷹の遊び代は、24文二人分で48文、これで
蕎麦三杯は食べられるという勘定である。


花陰で手招きするは老いた魔女 油谷克己



「近世職人尽絵詞」
明暦の大火(1657)からの復興事業以降、江戸では、外食を求める
独り者に食事を提供する煮売屋台が出現。にぎり寿し、鰻や天婦羅など
江戸の味が連なり、それがやがて居酒屋に並ぶようになる。



天婦羅の店に蓍(めどき)を建てておき
天婦羅のゆびを擬宝珠へ引きなすり
※ 蓍は、占いに用いる50本の細い棒。屋台の天婦羅は串揚げなので、
食べた後のその串が易者に筮竹(ぜいちく)のように置かれている。
油のついた指を橋の擬宝珠に行儀の悪い連中がいた。
妖術という手で握る鮓のめし
にぎにぎを先へ覚える鮓屋の子
押し鮓やなれ鮓に目が慣れているから、目新しい握り鮓を握る手つきが
妖術にも見えるというのである。


いい風を入れようひとり暮らしです  阪本こみち



「大江戸芝居年中行事 風聞き」
二八蕎麦に並ぶ庶民の様子が描かれている。



四文屋は吉田町では台屋なり
本所の吉田町は夜鷹で有名。台屋は遊里の仕出し屋。
四文一とは、なんでも四文均一のこと。
(これが回転ずしのルーツである)
佳肴(かこう)珍味を盛りならべ四文一
※ 煮売屋は、何でも一つ4文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれ、
焼き豆腐、コンニャク、鮑、スルメ、レンコン、刻み牛蒡、
などを醤油で煮ぞめ、大皿に並べ売っていた。
また魚や野菜のどの煮物を食べさせた、持ち帰りができた。



盃を伏せて男の今日終わる  佐藤后子

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ストーカーとして残暑を逮捕せよ  美馬りゅうこ


 
 (画像は拡大してご覧ください)
 小伝馬屋敷と振袖火事




町牢屋敷の広さ
高さ7尺8寸(約2、4m)の練り塀でめぐらした敷地2618坪(86
39㎡)。 うち、牢屋奉行屋敷380坪、牢屋役人の長屋、庶務所、
炊事場、米蔵、米搗き場など台所、薬調合場、拷問蔵、処刑場、試し切り
場などで、全体の6割ほどを占め、残りの敷地に、男と女を別にした大牢、
二間牢、揚屋がそれぞれ二つずつとなっている。

「江戸の風景」 小伝馬町牢屋敷 (犯罪‐人情美談)





  小伝馬町牢屋敷断面図

 
江戸小咄の中にある犯罪を拾ってみると、殺人とか強盗とか詐欺、汚職
や横領、煽り運転や愉快犯などという、今流行りの、呆れるような犯罪
はありません。江戸小咄の中の犯罪は、みんな愛嬌があり人間的でした。
しかし、どういう犯罪でも、見つかって捕えられれば、牢屋にぶち込まれ
て調べられて罪が決まる。
軽いのは敲かれる程度で釈放ですが、重いと島流しや死刑になります。
しかし、次のような嘘のような本当の話も実際にあってようです。
江戸時代は、十両のカネを盗むと「死罪」と決まっていました。
 泥棒、そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという
法律通がいたといいます。そういう泥棒を捕え調べて、一朱足りないた
めに奉行が「死罪を課せられない」「どうして九両、二分三朱なんだ」
と言って、口惜しがったことがままあったとか。

 
人間てどんならんなとカラス鳴く  宮井いずみ


 
「実際はそんな馬鹿げたものじゃありません」
慶長年間(1618~)に牢屋ができてから、明治になって市ヶ谷の監
獄ができるまで、270年間は江戸市中で捕まった犯罪人は、小伝馬町
の牢屋に連れて来られました。
60万人の大都市の江戸の犯罪者すべてを、この牢屋敷でまかなってい
たのです。どうして賄うことができたのか。軽罪人は、町奉行所の牢や
町名主や身元引受人に預けられることもあり、裁判のほとんどが、1回
の即決で放免される者が多かったこと。また当時は死刑が刑罰の主流で、
今のように判決から執行まで時間はかからず、判決後ベルトコンベア式
に死刑執行されていました。また牢内の衛生状態の悪さと、牢名主らに
よるリンチなどによる牢死者も多かったことで、牢内はオーバーフロー
することはなかったのです。

 
キセル繰り返した駅に降りてみる 竹内ゆみこ

   小伝馬町牢獄内の「牢法」
江戸時代の牢内では、入牢式から雪隠の使用方法まで
独特な習慣(法)があった。

 
牢屋敷は、現在でいえば未決囚の収容所で、一時的に留置しておくため
のもので、牢獄は「重罪人用、軽罪人用」とあり、「東大獄と西大獄」
の2つに分けていました。囚人の数は、多い時には400人、少ない時
でも100人以上が常時いたようで、獄舎は身分によって区分けされて
おり、庶民は大獄二間牢、御家人・大名家臣・僧・医師らは揚り屋、
旗本・高僧・神主らは 少し設備のいい揚り座敷、女性は身分の別なく
西の揚屋に収容されたようです。
そして東大獄には、戸籍のある有宿者を、西大獄には、戸籍がない無宿
者を収容していました。この無宿者収容の西大獄が、文字が示すように
大変なところだったのです。
 
予約などないのに列について行く   山口ろっぱ 





    牢 内

 
「地獄の沙汰も金次第」
牢内の囚人には、厳粛な序列制度があり、役人も手出しができません。
暗黙の「牢法」というのがあり、囚人のボス「牢名主」を筆頭として、
12人の牢役人と呼ばれる囚人たちが、獄中を統治していました。
この牢役人は、新参の犯罪者がどんな犯罪を犯して捕まったのか、家庭
環境などを吟味して、待遇が決められていました。牢役人による統治は、
苛烈を極め、地獄の様相そのままだったようです。
牢名主は、10枚ほどの畳を重ねて、最も高い場所に座ったのに対し、
平の囚人は一畳に8人から10人がすし詰めで座し、まともに足を延ば
すことすらできず、拷問に近い状態を強いられたのです。
少しでも広いスペースをもらうには、入牢時に少しでも多くの持ち金を
牢役人に渡したり、何か物を差し入れする事がコツでした。

 

冷蔵庫に寝かされ一日は黙る  山本早苗


 

 
「犯罪を示談ですます」
間男は列記とした犯罪です。
しかし、江戸時代のこの犯罪は、大方、示談ですませたといいます。
時代によって差がありますが、その慰謝料は五両とか七両二分とか。
いまは「不倫は文化」と言われるように週刊誌のタネにはなっても、
男女平等の憲法下では、犯罪にはなりません。
しかし、三つ四つほど時代を遡れば、「姦通罪」というのがあり、
不義密通の罪は、放火、強盗、殺人などに次ぐ重い罪なのです。

 
わたくしだって真っ直ぐだった中二まで  杉浦多津子

「江戸小咄ー①」
ある男、間男を女の亭主に見つけられて、いろいろと詫びをして、
結局のところ四両払うことにして、ともかく自宅へ帰る。
そして男が女房に
「カネを四両出してくれ、これこれだ」と包まず話せば、女房が
「一回やって四両かい」
「おおさ」
「それなら、お前さんあの人のところへ行って、差引勘定だからと言って、
あべこべに四両とっておいで」
こっちの女房は、カネを請求してきた男と二回お遊びしていたようで…。

 
ばれたらしいともかく土下座しておこう  前中一晃

 
「ちょっと泣ける話」
「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」これは江戸市中で目立って多い
ものをランキングしたもので、やはり群を抜いて火事が一位でした。
 万治3年(1660)正月2日から3月24日までの3か月足らずの
間に105回も出火したという記録が残っているくらいですから。
「万民昼夜共に安座の心なし」と火事は、江戸の民衆を嘆かせました。
とにかく江戸は火事に弱かった。江戸幕府が設立されて半世紀、安寧の
世になって、気の弛みもあったのかも知れませんが、当時の家屋の屋根
は藁ぶき、茅葺き、板葺きが主だったから、防火という点では全く無力
で焚火造りの家屋の密集だったのです。



 
右足はもう結界を踏んでいる  森田律子






 火元は本妙寺(俗説)

 
江戸時代の三大火事の一つ明暦3年(1657)1月18日から19日
に跨り「振袖火事」とも俗称されている、本郷丸山の日蓮宗本妙寺から
出火した大火がありました。死者の数凡そ7万人以上、負傷者数知れず、
江戸城の天守が消失、町の大半が焼失した明暦の大火災です。
 いわくつきの紫縮緬の振袖を、本堂の前で焼いて供養をしていると、
火のついた振袖は、折からの季節風に煽られて本堂の屋根に燃え移り、
やがて四方八方へ飛び火して、衝撃的な火災となりました(他説もあり)
江戸城本丸を含む江戸府内の、ほぼ6割が焦土と化し、死者の数は凡そ
10万人、負傷した者数知れず、天火未曽有の大火事でした。


 
終る刻コトンと音がしませんか  桑原すゞ代





    切 放 し
 
この明暦3年の大火の際、小伝馬町牢屋敷の奉行の任に石出帯刀吉深
(よしふか)就いていました。石出帯刀は世襲名で町奉行の配下にあり
給料は、めちゃめちゃ安い300石。
任務は牢屋敷一切の監督取締り、死刑、敲の執行、赦免や宥免の申し渡
しの立ち会いなどです。ここからが泣ける話です。
 この明暦の大火の鳴りやまぬ半鐘の音を奉行屋敷で聞いた石出吉深は、
焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、「大火から逃げおおせた暁
には必ずここに戻ってくるように…。さすれば死罪の者も含め、私の命
に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。
もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追
い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」
と申し伝えた上で、一時的に解き放ちを独断で実行しました。
囚人とはいえ人の子です、吉深は囚人たちを信じ、後日お咎めがあった
際には、自ら腹を切る覚悟であった。三日目に鎮火してその三日後から、
囚人たちは吉深と約束を交わした場所、浅草の善慶寺へ1人、2人と戻り、
120人程いた囚人は全員戻ってきたのです。
 


感涙に土足で入り込まないで  西 啓子
          

「江戸小咄ー②」
夜中に、「火事だー」という声を聞いて、亭主が
「おいおい、起きろ!」
と寝ている女房を揺り起こそうとすると、女房けだるそうに、
「今夜は、もう堪忍しておくれ」
(飛んだ気楽な火事騒ぎです)
 
阿保ばなし酢だち絞って召し上がれ  桑原伸吉





  「十思之疏」
 


当時は、10両以上の盗み、3回以上の盗みには、死罪が言い渡された
時代でした。 明治8年に伝馬町牢屋敷にいた囚人たちを新築の市ヶ谷
監獄へ移すまでの約270年間に、入牢者は10万人、そのうち数万人
が処刑されたと言われています。 
寛永16年(1639)には、原主水ら江戸キリシタン1500人余り
が入牢し、宗旨変えをしなかった信徒たちを、浅草の鳥越刑場で処刑し
ています。他には、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら維新の志士50
人処刑されました。その場所も今は福祉センターが立ち。
宋の司馬光の「十思之疏」が石板にして飾られています。
人の上に立つ者の心得として、10カ条がありますが抜粋して三つだけ。
①欲しいと思っても、足りれば十分であることを知って、徒に多くを望
 まないこと。
②満ち満ちている時には、心をおさえて奢ることがないようにすること。
③刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまう
 ことのないようにすること。


 
サボテンよ罪滅ぼしが間に合わぬ  山本昌乃


 
「土壇場」とは、江戸の小伝馬町の牢屋で生まれた言葉で、
首切りの刑の穴の前の土の壇をが語源になっています。
「江戸小咄ー③」
泥棒で捕まった男、刑死の土壇場で
「この世の名残に辞世の歌を…」 というので首切り役が
「盗っ人のくせに和歌をたしなむとは風流な奴じゃ。
よしよし聞いてやるから、どんな歌だか詠んでみろ」というと
「かかるときさこそ命の惜しからめ かねてなき身と思い知らずば」
と深刻ぶって詠みあげた。
途端に聞いていた人たちが怒り
「馬鹿め!それは太田道灌の詠んだ歌ではないか!」と言うと
「はい。これがこの世での盗み納めでございます」


世はうねり妙な正義が巾きかす  近藤北舟

拍手[3回]

骨壺を振ってときどき会話する  三村一子


八百屋お七と佐兵衛
「江戸の風景」 治安③ 残酷刑罰




         穴 晒 箱



戦国の時代は、決まった形はなくさまざまな「残酷刑罰」が存在した。
江戸時代は、人心の安定のため社会のあり方にも、少しづつ変化が見え、
17世紀の終わり頃には、五代将軍・綱吉が「生類憐れみの令」を制定し、
「捨て子の禁止」「行き倒れの病人の看護」を命じる時代になると、
人道的な感覚も出てきた。
例えば、土の中に体を埋めて頭だけを外に出し鋸で少しづつ首を切る
「鋸引仕置」という残酷な刑罰がある。
戦国時代は、実際に首を切っていたといわれているが、江戸時代には
形式的なものになった。
穴晒箱(あなさらしばこ)という箱を土中に埋め、罪人を座らせ首だけ
を外に出す。側に鋸を立てるが、罪人の肩を傷つけて刃に血液をつける
だけで、実際に首を切ることはなかった。

月の出を待って介錯いたします  笠島恵美子


  鋸引仕置の図
「鋸引仕置」 (レベル5)反逆罪など
50センチ四方の木箱に罪人を入れ、首だけ外に出して土中に埋める。



鋸仕置は主殺しなどの重罪人に適用される刑だが、この儘では死なない。
二晩三日晒した後、市中を引き廻し最後に磔にするという流れだ。
江戸時代の死刑にも罪の重さによって殺し方があり、斬首、磔(槍で刺
し殺す)火炙りにするの3パターンがある。
ここに付加刑として「鋸仕置」「獄門」「引き廻し」がある。
当時は、罪人の自白が重要視された。
証拠や証言などで罪状間違いなしという場合でも、自白が求められ、
口を割らなければ、「拷問」にかける。
最初は「笞(むち)打ち」それで駄目なら「石抱」(山型に組んだ木の
上に正座させ、重い石を膝に載せるというもの)になる。
自白がなくても、結果的にはお上の裁きで刑罰が下るので、意味のない
ことのように思えるが、当時は、自白の目的は改心させることにあった。

菜の花の一つがうしろ向いたまま 嶋沢喜八郎



   磔 刑 の 図
「磔刑」(レベル4)  殺人など
女は足台のついた十字の罪木に縛る。男は複十字型の罪木に縛る。
処刑の際は槍を脇腹から肩先まで貫き、ひとひねりして抜く。



仏像を間近に罪を数えてる  松本としこ


        火 刑 の 図
「火刑」(レベル4) 放火
死刑のなかでも、火炙りは極刑である。
生きたままの罪人を柱に縛り、体が見えなくなるほど薪を積み上げ、
風上から点火し、生き地獄のすえ絶命した死刑囚の鼻を止め焼き殺した。
焼死体は二夜三日晒して見せしめにした後、捨札は30日間立て捨てた。




「放火犯の報復刑」と呼ばれ「火付けには火あぶり」というのが、江戸
の刑罰の原則で、火つけの罪は火あぶりと決まっていた。 
放火が厳罰に処せられるのは、江戸の町が木造建築の密集地帯のためで、
江戸はたびたび大火に見舞われたが、その原因としては放火が多かった。
女や子供でも、火つけの場合は、容赦なく火あぶりが待っていた。
ただ江戸時代、この刑になった女性は「八百屋お七」ただ一人である。



躓いたところへ飾る余命表  桜 風子
        


   獄 門 の 図
「獄門」(レベル3) 窃盗など
死刑のなかで獄門は一番の重罪。斬首のあと、首を獄門台にのせ、三日
二晩刑場に晒す。台には長い釘が突き出て、首を刺すようになっている。



遠島出船の図
「遠島」(レベル2)  賭博など
刑罰の一つである「流刑」「遠島」(島流し)ともいった。





追放より重く、死罪より軽いが、「誤って人を殺してしまった者」、
「賭博の常習者」、「女犯の僧」などがこの刑に科せられた。
江戸時代の主な流刑地は、江戸からは、伊豆七島や佐渡島へ送られ、
大阪以西からは、壱岐、隠岐、天草諸島だった。
時代が下ると、八丈、三宅、新島の三島と壱岐に限られる。
島での生活では、労役はない。
しかし生活は保障されず、自分で生きるのである。だから流人には、
貧しい生活の者と楽な暮らしの者の二通りが存在するようになった。
職人は腕を活かし、学識のある者は手習いを教え、僧侶などは、
島民に布施をもらって比較的楽に暮らせたという。
島から脱走して捕まると、再度、島に戻され処刑に処された。

散骨にしてくれ閉所恐怖症  播本充子






敲(たたき)仕置の図
敲仕置 (レベル1) 窃盗
古来以来の刑罰「笞」「杖」の系譜に繋がるもので「敲仕置」がある。
「軽敲」は鞭で50回、「重敲」は100回以上打つ。
裸にして背後から押さえつけ肩、背中、を敲く。

         
江戸の小伝馬町牢屋敷では「笞(むち)打ち」「石抱き」「海老攻め」
などの拷問が行なわれた。笞打ちは、上半身を裸にし、左右の肩の背後
まで締め上げ、背中の筋肉を肩先まで押し上げてから縛る。
ムチが骨を砕かないようにするためである。
最初は打ち役は一人。
竹で囚人の肩を力をこめて敲き、与力が尋問する。
自白しなければ打ち役二人が左右から打ち、牢役人が水を浴びせて皮膚
の破れを防ぐが、肌はもはや真っ赤で湯気が立つ。
やがて皮膚が裂けて血が走るので、砂をかけて血止めする。
100回ほど打っても自白しなければ、殺さず、その日は牢へ戻す。
こうして、数日に渡って厳しい攻めが続く。
無住寺へバキュームカーを置き忘れ  井上一筒





 石抱きの図
笞打ちで自白しない者には第二段階として「石抱き」をさせる。
さらに第三段階は「海老攻め」が待っている。
石抱きとは、座った膝の上に13貫目(49k)の石を置く拷問。
それでも口を割らないと、石がもう一つ重ねられる。
海老攻めは、下着だけにした囚人を、脱いだ着物の上で胡坐をかかせ、
足首を左右重ねて細引きで縛る。
両手を背に回させ、二の腕を四方形にして左右両手首を縛り固める。
さらに細引き二本を肩から前に回して両脛一回りさせ、上に強く引いて
両足を顎が密着するまで締めつけ、その先を両手に固定する。
形が海老に似ているのでこの名がついたが、このまま1,2時間かけ、
笞で敲きながら尋問を続ける、というから酷い。

パンドラの箱から乾いた唇  森田律子

  三段切りの図
三段切り (レベル4)  姦通・背任など
各藩も厳しく罰していたが、金沢藩ではとくに残酷な「生吊るし胴」
通称「三段切り」が行なわれていた。



「生吊るし胴」と呼ばれるこの刑は、受刑者にとっては残酷な仕打ち
であるが、刑を執り行う者には相当な技量が要求される。
半端な腕しか持たない者であれば、不安定に吊られた人間の胴体を、
ひと太刀で切り落とすことは難しい。
ことに、この刑は町衆の見守る中で行われるから、失敗すれば、処刑
人の家名に後々あとまで傷が残ってしまうのである。
受刑者はもとより、処刑人にとっても実に残酷な刑だった。
「吊し胴」とは、両手を頭上にして吊るし、腋腹を横に一直線に斬り放し
「放し斬」は、両手を後頭部に縛り目隠しをして罪人を歩かせながら後ろ
から胴体を横一文字に斬り放すのだから凄まじい

惨劇の一部始終を見た金魚  油谷克己



  斬罪仕置きの図 
下手人(レベル2) 詐欺、盗賊、博打など
刑場に土を盛って「土段場(土壇場)」というものを作り、そこに目隠
しをした罪人をうつぶせに横たえて、2名の斬手が同時に頸と胴を斬り
放すものである。

逃げるよりいっそ無様に斬られよう  桑原伸吉

不義密通の罪(曽根崎心中)       
(レベル3) 不義密通は死罪
「密通の妻と密通の男」は死罪と決められていた。



武家や商家では「不義はお家のご法度」で妻に寝取られた夫は、
密通の妻と間男を殺しても無罪になった。
「心中」が美化されるようになったのは、近松門左衛門『心中天網島』
あたりから。
近松はほかにも『曽根崎心中』など、心中ものに名作を残している。



天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一



江戸時代、男と女の仲は、厳しい決まりで縛られていた。
許されない恋では、あの世で添い遂げようと、お互いに手と手をとって
死出の旅にでるほかはなかったのである。
まず、結婚には親の許可がなくてはならない。身分違いの恋も駄目。
不倫はご法度となれば、二人の気持ちは心中に向かうのも止むをえない。
では、片方が生き残ったらどうするか?
男が死んで女の方が生き残った場合には、女は低い身分にされる。
反対に女が死んで男が生き残った場合には、男は下手人(死罪)になる。
心中は「片相手は死罪」と決まっていたのだが、
女の命は助けられていたのである。
もう一度生きても多分この程度  徳島一郎





「詠史川柳」 八百屋お七




 火刑(報復の図)


天和の大火(1683)の放火の犯人は「八百屋お七」でした。
これより3年前、本郷丸山町のお七の家は類焼を受け、
近くの小石川の円乗寺に仮住まいをしていました。
ここでお七は寺小姓の佐兵衛吉三郎)と深い関係に陥りましたが、
やがて丸山町に八百屋が再建されたので、一家は引っ越しました。
お七は佐兵衛のことが忘れられず、


芝居よりお七楽しむ寺参り




デートも重ねましたが、やがてお七の父親の久兵衛の知るところとなり、
監視の目が厳しく、外出をすることもままになりません。
会えないと思うと、そこは恋する乙女です。


火のついたようにお七は会いたがり
引っ越した晩からお七ヤケになり



ほんとうの恋に絵文字は使わない  阪本こみち
実は父親の久兵衛は、釜屋の武兵衛から二百両の大金を借金しており、
「返すまで担保として娘を寄こせ」と迫られておりました。


「黒物屋に行くのはイヤ」とお七いい


(黒物とは釜や鍋のこと)
お七は強く拒否をしましたが、いつの時代も貸した方が強く、結局、
お七は質草に取られることになり、



御無体な証文武兵衛殿久兵衛



ヤケになったお七は恋人の佐兵衛に仔細をしたためた手紙を送って



「こちゃ釜やせぬ」と小姓にお七云い



とは言ったものの、釜屋の慰み者になる前に、愛しい佐兵衛に一目なり
とも会いたくなり、また火事になれば会えると、一途な乙女心から放火
を考え付いたのでした。
無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子



お七は16歳と数か月。(当時16歳までなら死罪を免れましたから)
お白州で奉行の中山勘解由「16にはなっていないであろう。よくよく
数えて答よ」と謎を掛けました。そこは正直者のお七のこと



「十六」とすってんぺんから申し上げ
(すってんぺんからとはー最初からの意味)
「そんなはずはないと思うが、よいか、こうやって指を折って数えてみよ。
拙者の指は十五で止まるが」と奉行は減刑を暗に教えるのですが、
駆け引きが分からないお七には、伝わりません。
結局、法に従い、江戸・鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられました。


こしょうにはむせぬがお七煙にむせ
八百屋町むごかった御成敗
八百七の時分は恋も律儀也




都合よく人間やめる花菖蒲   小川一子

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