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川柳的逍遥 人の世の一家言
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巻き舌で脅かすルート66  酒井かがり




  大賀政談・天一坊事件



「江戸の風景」 治安ー②


「奉行」
江戸市中には、「南町奉行所」「北町奉行所」があります。
といっても二つ奉行所があったわけではない。
江戸八百八町という広大なテリトリーの安全を守る激務だったため、
南町、北町に分け、月交代制で仕事をこなす役所である。
今に云いかえれば、警視庁、裁判所、消防庁、都庁を兼ねた役所で。
月番に当たった場合、「町奉行」は、午前10時頃には江戸城に出仕して
老中と打ち合わせ、午後1時に奉行所に戻り、その日の訴訟についての検
討、処理を始めるという過密なスケージュールがありました。
しかも町奉行には(追放や死罪などの重罪を下す権限はなく)、重大事件
については、寺社奉行や勘定奉行を加えて吟味したり、また目付、大目付
を加えた「上級審議の場」に出席しなければならない。
さらに、江戸の全町における民事訴訟から消防、土木などの行政まで引き
受けるわけだから、体がいくつあっても足りず、時間がいくらあっても間
に合わない職務であった。さてここで有名な町奉行を紹介いたしましょう。



たそがれを紫色で締め括る  岸井ふさゑ





  大岡忠相



「大岡忠相」
大岡忠相(ただすけ)は、八代将軍吉宗に重用され、「享保の改革」を
町奉行として支えた歴史上の実在人物です。
「町火消の創設」「小石川養生所の設立」「サツマイモの栽培普及」
など江戸庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、
「遠島や追放刑を制限」「囚人の待遇改善」に取り組み、咎人への残酷
な拷問を取り止め、「時効の制度」を設け、「連座制を廃止」したりと、
当時、画期的な様々な改革を推進しました。


木蓮の白に迷いが吹っ切れる 北川ヤギエ

これらの改革に庶民は拍手喝采。
それまでは名奉行といえば板倉勝重でしたが、庶民の味方、人情深いお
奉行様、ニューヒーロー大岡越前登場!と尊敬と人気を集め、現代まで
名奉行として語り継がれることになりました。
その庶民感覚重視の活躍ぶりを描く『大岡政談』は歌舞伎、講談、人情噺
浪花節など、あらゆるジャンルの大衆娯楽で取り上げられていることは、
承知のところです。特に落語に登場するお裁きは、越前大岡裁として定着
しました。が、ほとんどは外国の故事や古い逸話から脚色されたものです。
『三方一両損』は、板倉裁きだったものがいつのまにか人気の大岡裁きに
なって伝わっています。



人生のロスタイムからファンファーレ  斉藤和子


「三方一両損」 落語から
左官の金太郎は、三両の金が入った財布を拾い、一緒にあった書付を見
て持ち主に返そうとする。財布の持ち主はすぐに大工の吉五郎だと分か
るが、江戸っ子の吉五郎は、もはや諦めていたものだから「金は受け取
らない」と言い張る。しかし、金太郎もまた江戸っ子です、「是が非で
も吉五郎に返す」と言って聞かない。
互いに大金を押し付け合うという奇妙な争いは、ついに奉行所に持ち込
まれ、名高い大岡越前が裁くこととなった。 



好きなのにイエ好きだから目をそらす 雨森茂喜

双方の言い分を聞いた越前は、どちらの言い分にも一理あると認める。
その上で、自らの1両を加えて4両とし、2両ずつ金太郎と吉五郎に分け
与える裁定を下す。金太郎は3両拾ったのに2両しかもらえず1両損、
吉五郎は3両落としたのに2両しか返ってこず1両損、そして大岡越前
は、裁定のため1両失ったので三方一両損として双方を納得させる。 
そして場が収まったところで越前の計らいでお膳が出てくる。
普段は食べれないご馳走に舌鼓を打つ二人を見て越前は、「いかに空腹
だと言っても大食いは身体に悪い」と注意する。すると、二人は答えた。 
「多くは(多かあ、大岡)食わねえ。たった一膳(越前)」 



方向音痴だったのかブーメラン  森井克子




 晩年の金さん

「遠山景元 」
遠山景元、通称・金四郎は江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、
大目付、後に南町奉行を務めた歴史上の実在する人物です。
老中水野忠邦がすすめる「天保の改革」の実施に当たっては、町人達を
奉行所に呼び集め「贅沢と奢侈の禁止」「風俗取締り」「寄席の削減」
の命令を出しますが、町人の生活と利益を脅かすような、極端な法令の
実施には反対しました。やはり金四郎は庶民の味方でした。
そのため南町奉行矢部定謙や目付の鳥居耀蔵や水野忠邦と敵対します。
その後の悪を許さない金四郎の活躍は、ドラマで見る通り、正義の味方
でした。しかし、二年程の奉行勤務の後、ずる賢い鳥居の策略によって
北町奉行を罷免され、大目付の役に回されます。見た目では、栄転で地
位は上がりましたが、諸大名への伝達役に過ぎず、実質的に閑職でした。
その後、水野が退陣すると次の老中阿部正弘にその人柄と実行力を買われ、
復帰すことになります。



機械です歪な丸が描けません  郷田みや


遠山の金さんの胸から肩への「桜吹雪の彫り物」が気になります。
明治26年に発行された雑誌の伝聞記事によると、金さんの彫り物の絵柄
は桜吹雪ではなく、口に絵巻物をくわえて、髪を振り乱した女の首だっと
あります。金さんが彫り物をしていたという確証はありませんが、時代考
証家の稲垣史生氏は、若年のころ侠気の徒と交わりその際いたずらをした
ものだろうと、推論を転回されています。
彫物をしてたのは間違いないが、これも講談・歌舞伎がある程度、大きく
脚色したものです。ところで本業のお裁きでは金四郎は、越前のような
名裁きをした記録はほとんど伝わっておりません。



ひと巡りして真実になる噂  橋倉久美子





  長谷川平蔵



「火付盗賊改とは」
鬼平でお馴染みの「火付盗賊改」は火付けや盗賊の探索が主な任務ですが、
恐喝や詐欺なども含まれていたようで、その活動は江戸市中にとどまらず、
関東,東海、北陸、東北へも、与力や同心を派遣しています。
犯罪を撲滅するのが目的なので、旗本、御家人、町人の区別なく検挙する。
旗本や御家人を検挙したら、それぞれの監督の目付に引き渡す。
そのほかの者に対しては、どんな拷問もいとわなかったようです。
しかし町奉行とはどうしても持ち場が重なることから、お互いにライバル
視して、諍いが絶えなかったようです。
縁のないボナンザ爪だけは伸びる  森 廣子

「長谷川平蔵」
長谷川平蔵は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で一躍有名になりました
が歴史上の実在人物です。父の宜雄(のぶお)も火付け盗賊改役だったこ
とがあり、京都西町奉行になり、京都で亡くなりました。
平蔵は30歳で家督を継ぎ、時の老中田沼意次へ届けられた進物の係など
を経て、火付け盗賊改役のなったのは、松平定信の寛政の改革が始まった
天明7年(1787)42歳の時です。寛政7年(1795)までの8年間勤めあげ、
お役御免を申し出て認められた3ヵ月後に死去しています。



月の出を待って介錯いたします  笠島恵美子

平蔵の若いころの「放蕩ぶり」「石川島人足寄場の設立」「盗賊の捕縛
や処刑」
は史実ですが、元盗賊の密偵を使うという発想や、「急ぎ働き」
「嘗役(なめやく)」
などの用語は作者が創作したものです。
小説の鬼平は「寛政重修諸家譜」をタネに生みだされました。
この本は、江戸幕府が編修した系譜集で、当時の各大名家・旗本・お目見
以上の幕臣の事跡が記されています。



参道に玉砂利たちの私語を聴く  田崎義秋

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惜しいから息はときどきしかしない  清水すみれ




江戸の賑わい(駿河町)
「江戸に花をつけて『花のお江戸』というのはなぜだか知っているかい」
「それは、江戸の賑々しさを花の華やかさにかけたのさ」
「なるほど、お前ぇは物知りだ。
 そんなら、「お江戸八百八町」とはどういうことだ?」
「それは江戸中で、おおよそ八百八丁くらいは豆腐が売れるってことさ」
「江戸八百八町」とは、江戸が大都会で、江戸の町数が多いことを示した
言葉で、将軍吉宗の享保9年の調べによると町人人口は64万2190人、
町数は1672町となっている。すなわち八百八町よりも倍多い。
もともと江戸地は、全体の60%が武家地、残りの40%は寺社地と町人
地に等分されていたというので、約20%の狭い土地に、町人たちはひし
めき合って暮らしていたことになる。
(文化3年(1806)の頃になると、江戸は武家人口を合せると百万人を超え、
パリ、ロンドンをしのぐ大都会へと発展した)
街路樹が友達だとは限らない  市井美春
「江戸の風景」 江戸の治安
江戸の町の社交場は湯屋の二階や髪結床だけではなく、居酒屋や水茶屋
なども代表的な社交場だった。
ただ意外な場所としては、「自身番」がある。
「怪しい奴だ、ちょっと番所までいっしょに来てもらおうか」
と岡っ引きに捕まり、しょっぴかれて番所へ連れ込まれるシーンは、
テレビの時代劇ではお馴染みである。
あの番所のことを「自身番」と呼ぶ。
江戸の町人たちは、各町内に簡素な小屋を設置し、
大家や書役などが昼夜詰める体制を作って近隣の治安を守った。
自身番の番人たちは、夜回りをして不審者を訊問する権利も公儀から
与えられていた。自身番の建築費用や運営費は、今でいう町内会費から
支出されており、幕府としては、警察費用が浮き、助かっていたのだ。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子

   自 身 番
自身番の広さは、当初、幅2・7m、奥行き3・6m、軒高さ4・8m
だったが、そのうち二階建てになり、広さも増した。


自身番についた火の見櫓
江戸時代の後期には「火の見櫓を備える自身番」が増え、番所の中には
捕り物道具のほか、消防用具が設置され、火が出た時には、消火活動に
もあたった。さらには訴訟など様々な願書への押印、捨て子や行き倒れ
人の保護、はては喧嘩の仲裁までを担った。
このため番所にはしょっちゅう人々が出入りする。
そもそも自身番は、町人たちが金を出し合って運営している公共施設で、
人々が気兼ねなく自由に上がり込んできた。こうして必然的に自身番は、
庶民の憩いの場となったのである。
自身番に似たものに「辻番」がある。
辻番とは、江戸時代の武家屋敷の辻々に設けられた自警のための番所、
または番人をいう。辻番の多くは老人が務めていたという。
辻番は棒をつかぬと転ぶたち こんな風刺川柳も作られた。
タンポポを見ながら足湯しています 井上一筒



与力の風体
髪は髪結いが通い、月代と髷を整えた。
基本的に出仕時は継袴を着て、草履を履いていた。
普段は十手は懐に隠していた。
外出時は4‐5人ほどのお伴を連れていた。
広い屋敷を貸して家賃収入を得る者もいた。

「与力の仕事」
さて実際の江戸の町の治安を守るのは、「八丁堀」である。
NHKで放映中の中井貴一の「雲霧仁左衛門」や東山紀之の「必殺仕事人」
中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」など、捕り物の時代劇を見る時、今ここに
書く江戸の治安の蘊蓄を頭にいれおいて頂くと、なお面白いドラマ観賞に
なることうけあい。
日本橋の南の舟入場は、八丁堀と呼ばれた。
その八丁堀に「与力」「同心」の組屋敷が並ぶ官舎街があったことから、
与力と同心は「八丁堀の旦那」と呼ばれた。
いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に働く事件捜査、
犯人逮捕の実働部隊である。まさに昭和時代の刑事である。
怪しいものですとは誰も言わんやろ  西山春日子
ただ同じ八丁堀の旦那でも、与力と同心には大きな階級の差があった。
南北の町奉行所には25人の与力、100~140人の同心が配属され
ていたが、家禄、待遇、権限のすべてに大きな差がつけられていた。
与力は200石で、同心は30俵二人扶持。
与力は終身雇用の世襲制、同心は1年契約。
さらに与力には、訴訟を処理する権限があり、ほとんどの事件は、
与力の処理を町奉行が白洲で追認していたが、
同心の職務は、捜査、逮捕、取り調べまでだった。
与力は手当を役所から受け取ってはいるが、それだけでは足らず、
大名や商人から金を受け取ることが公認されていた。
しかし、その金で裁きが左右されることはないとはっきりするために、
きちんと領収書を認めていたという。
ひけ目でもあるのか雨がそっと降る  嶋澤喜八郎


同心の風体
髪型は町人にも人気だった「小銀杏」と呼ばれる細くて短めの小振りな
髷を結っていた。
黒紋付羽織に着流しで足元は雪駄という、粋な恰好が庶民の人気を得た。
羽織の裾を帯に巻き込む「巻羽織」も流行した。
100坪ほどの屋敷地に30俵2人扶持の収入で、二人の奉公人を雇わ
なければならなかった。

「同心の仕事」
町奉行所の同心には、警察署の刑事と同じく、「橋回り」「水路回り」
「牢の監督」など色々な職務があった。
花形は、何といっても犯罪捜査と犯人逮捕に当たる「定廻り」
現場検証をし、岡っ引きを情報屋に使い、下手人を捕縛し、番屋で取り
調べを行うのが、定廻りの仕事である。
そして定廻り同心は、取り調べで容疑が固まった段階で、自分の手で
逮捕した下手人を与力に引き渡す。そこから先は権限外だった。
下手人が白洲に引き出されるかどうかは、与力の取調べにかかっている。
 因みに、与力と同心とでは、十手の差し方が違う。
刀と揃えて腹の前に刺すのが与力で、腰の後ろに隠して差すのが同心。
その根拠は定かではないが、現場を動き回る同心としては、町に溶け
身分を悟られるのがまずかったのかも知れない。
現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ
定廻りは、夫々の町奉行の下で、担当地区を巡回し、お上が出した法令
が守られているか、如何わしいことはないかなどを監視し、犯罪が発生
すれば取り締まる。犯罪捜査よりもパトロールの意味が強かったから、
それぞれの町に設けられた番屋はもちろん、商家などにも顔を出す。
そこでは、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対して接待をするから、
食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の大家から付け届けなど
もあり、年収を数倍も上回る収入があったようだ。
武士が公務で出歩くときには羽織・袴だが、八丁堀の同心だけは例外で、
紋付の羽織を着用するが、下は着流しで、帯は博多、雪駄履きだった。
三元号生きて三回転できる 河村啓子



自身番に集う町民


「岡っ引きと下っ引き」
岡っ引きというのは、同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋である。
定廻り同心は、巡回のときに「小者」を連れている。
これは正式な配下ではないが、同心直属の部下だ。これに対して、
その区々の持ち場で手助けをする者を「岡っ引き」といった。
岡っ引きは「御用聞き」ともいわれ、江戸以外では「目明し」
関西では「手下」とも呼ばれた。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、
岡っ引きは、同心に個人的に仕えるだけで、保証らしいものはない。
同心の下には岡っ引きが、2、3人付いているが、
その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付いている。
岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を使っていた。
その岡っ引きは、さらに手下を抱えている。張り込みや連絡が必要な時に、
緊急で招集をかけるときの手数である。それらを「下っ引き」といった。
神田明神下に住む岡っ引が銭形平次で、下っ引き八五郎という具合である。
この町で咲きこの町の土になる  笹倉良一

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落ちつくのですがらくたに囲まれて  小林すみえ


 
(拡大してご覧ください)
  絵本満都鑑(寄席風景)


 
『醒酔笑』(せいすいしょう)
抜けた男に、海老ををふるまったところ、赤いのを見て「これは海老の
生まれつきか、それとも朱を塗ったものか」と、尋ねるから「生まれつ
きは青い色だが、釜で茹でると赤くなる」と、説明してやると合点した。
ある時、馬上の侍の前を中間たちが、二間半の朱槍を持って歩いている
のを、この男が見て、「世間は広い、珍しいことがある」と感心する。
「何をお前は感心しておるのだ」と、聞いてみると「あの槍の赤い色は、
火をたいて皮をむいて色をつけたものだが、あれ程の長い釜があったも
のだ」といった。「安楽庵策伝」


 
「上方生れ 江戸育ち」 落語




曽呂利新左衛門


 
安土桃山時代に京都の僧侶・安楽庵策伝が、上級階級の前で演じた口演・
「醒酔笑」また、戦国時代には、大名あるいは将軍といった身分の高い
人に聞かせた「お伽衆」「咄職」が落語の原形といわれます。
それは、いまでいうとラジオ・テレビなどの代わりの役目を果たしたわ
けで、毎夜のように新しい話を聞かせる。
種がなければ、自分でどんどん作って聞かせるという具合でした。
これらの人の中で著名なものとして伝えられているのは、冒頭の僧侶・
安楽庵策伝、お伽衆・曽呂利新左衛門豊臣秀吉その他に、小咄または
落語のようなものを聞かせたと伝わります。
やがて、江戸が江戸らしくなって、五代将軍・綱吉の頃、京都・大坂・
江戸において不特定の聴衆を前にして軽口、滑稽を演じ、街頭で喋り、
何がしかの代銭をとって、営業化する者が現われはじめます。
「辻噺」と呼ばれるもので、その代表的な人物が、京の露の五郎兵衛
大坂の米沢彦八。醒酔笑の作品をヒントに五郎兵衛は長目の小咄を創作
独演したと伝わります。また、大阪落語の始祖・彦八は、生國魂神社に
おける「彦八まつり」というイベントにその名が残ります。


 
まだ少し濡れている新しい風  雨森茂樹




    鹿野武左衛門の一席


 
一見、順調に発展すると思われた「辻噺」でしたが、悲劇が起こります。
京・大坂、江戸でも人気の大家(たいか)に鹿野武左衛門という人が作
った「堺町馬の顔見世」という噺をヒントに事件が起きたのです。
当時、市中に疫病が発生し死者が出るという騒ぎが起きたとき。
この騒ぎに便乗して一儲けを企んだ八百屋と浪人が、南天の実と梅干の
特効を説き、処方箋までつけて売りまくりました。
このため、南天と梅干は高騰、偽の予防薬は大いに売れましたが、まっ
たくのイカサマと露見し、犯人は斬罪と牢死、著者と版元は島流しとい
う、大騒動になったのです。
 
折る指が足りぬ空転が続く  杉浦多津子




  烏亭焉馬


 
この「南天梅干事件」のお陰で、庶民の「噺」に対する興味は急速に衰
退し、安永2(1773)年から、庶民参加型へと変わっていきます。
それは、「雑排、にわか、小噺」などを一般から募集し、出来映えに応
じて景品をだすという趣向のものでした。それを出版社がバックアップ
して東西で流行り出したのが、「噺の会」というものです。
「噺の会」は、従来の「軽口噺」にオチをつけて滑稽味を加えた落し噺
で、それが「落語」へと発展していく礎となります。
こうして疫病事件以降衰退していた噺の世界が、復活を遂げます。
復活の機運を特に盛り上げたのは、職業は、大工棟梁ですが、狂歌を好
んだ初代・烏亭焉馬(うていえんば)が天明6(1786)年の噺の会でした。
" いそかすは濡れましものと夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹 " 焉馬
 
窓際のうつろな春の福寿草  北原照子


 
寛政3(1791)年には、大阪下りの落語家・岡本万作が、日本橋の駕籠屋
の二階を借りて行った夜興行が好評を博します。同人が同10年、神田
豊島町の露店び「頓作軽口噺」の看板をかかげ、辻々にビラを貼って客
を集めて興行をしました。これが「寄席興行」の初めであるとともに、
ビラによる集客宣伝の新機軸は、今日の寄席文字の初めとの位置づけが
され、また寛政10年には、職業落語家第一号、江戸噺元祖といわれる
初代・山笑亭可楽が下谷稲荷社の境内で「プロの落語家」としてはじめ
て興行を開いています。


 
檜扇が咲いて祭りが始まった  河村啓子


 
これがきっかけとなって、江戸市中の寄席は、文化元(1804)年、33軒、
同12年75軒、文政8(1825)年には、130余軒と増加していきます。
こうしたブームの中、天保13(1842)年、老中水野忠邦「天保の改革」
で落語の演目は神道講釈、心学、軍書講談、昔話に限られ、寄席は15
軒に制限されました。しかし、翌天保14年に水野が、失政により罷免
されると、再び活況を帯び66軒に回復、10年後の安政年間にいたっ
ては、従来の軍談講釈220軒を含め392軒までにふくれがりました。
寄席の数の増加に伴い、落語家も増え、興行体制も整備されていきます。
(寄席の収容人数は、ほぼ千人程度で木戸銭は48文。歌舞伎の大衆席
が木戸銭だけで130文であったことからも、寄席がいかに庶民的なも
のであり、安価な娯楽であったかが分かります。(一文、凡そ20円)
 
忘れよう象に踏まれたことなんか  笠嶋恵美子

 


『ごぜん上等すててこおどり』
 
明治維新後の東京は、地方出身者が多くなり、それに伴い、江戸っ子好
みの「人情噺」よりも笑いの多い「滑稽噺」が好まれるようになります。
明治10年代には初代・三遊亭圓遊が、滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊
り」で人気を得ました。同様に初代・三遊亭萬橘(まんきつ)は「ヘラ
ヘラ踊り」で、4代目・立川談志「郭巨(かっきょ)の釜掘り」とい
う滑稽な仕草で、4代目・橘家圓太郎、「馬車の御者の吹くラッパを
高座で吹き」人気者となりました。これが「珍芸四天王」と呼ばれた芸
人さんです。圓遊は、ことに時事的な話題を盛り込んだ笑いの多い改作
「新作落語」も演じ、さらに人気を高めました。


 
生き方が合うのでたまにカッパ巻き  靍田寿子




露の五郎兵衛の口演


 
「露の五郎兵衛のこんなものです軽口噺」

まるで字を読めない田舎侍が、お供を数人召し連れて、京都の室町と
いう
通りをぶらぶら歩いておりました。この室町という通りは、呉服
屋だとか
商売をしている店が多く並んでいるところでして、それぞれ
の店は軒に暖
簾を垂らし、店の屋号や売り文句なんかを、そこに書き
付けてあったんで
すが、この田舎侍、読める字がひとつもありません
でした。ですが、お供の手前もあって「字が読めない」とも言えず、
いかにも読め
るという風を装って、右の暖簾を見ては頷き、左の暖簾
を見ては、
「ははん、なるほど」などと言いながら歩いておりました。



前頭葉写っていないレントゲン  合田瑠美子
 
 
すると、その通りの中に戸を閉ざしている家がありまして、その板の戸
短冊状の紙が貼ってありました。
見ると、なにやら文字がすらすらと書かれてあります。
「これはなにやら、見事な句に違いない」
そう思った田舎侍、お供の一人を近くに呼び寄せ、
「お主は字が読めるか?」
「はい、多少は」
「うむ。それでは、お主の教養にもなるだろうから、ちょっとこの句を
んでみなさい」
「はい。ええっと、“ 貸し家、貸し蔵あり ”と書いてございます」
田舎侍、動じもせずに、腕なんか組んで、
「うむ、字はよろしくないが、“ この家貸します、この蔵貸します ”と、
長々と書かない奥ゆかしさが、なんとも良いではないか」
ええ、負け惜しみも、ここまでくると立派なものですな。


 
昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋  山口ろっぱ

「おまけ」

ある家の主人が銭を庭に埋めて隠す時、
「必ず、他の人の目には蛇に見えて、自分が見る時だけ銭になれよ」
と言うのを、こっそり家人が聞いていた。
家人は銭を掘り出し、代わりに蛇を入れて置く。
後になって例の主人が掘ってみると、蛇が出てくる。
「おいおい、俺だ。見忘れたか」
と何度も名乗っていた。

「おい棚の修理をするから、大家んとこへ行って、金槌を借りて来い」
 言い付けられた者が、手ぶらで戻ってくる。
「どうしたい?」
「へえ、釘でも打たれたら、頭が減るってんで、貸さねえんです」
「ちぇ、ケチな野郎だ。しようがねえ、家のを使おう」


 
梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ

拍手[5回]

四角張った話止めましょ花曇り  柴本ばっは



 (拡大してごらんください)
   金原亭馬生画「長屋の花見」
趣味は絵というだけにうまいものです。


「噺家と川柳」

 

昭和5年ごろ、噺家と親交のある川柳家・坊野寿山4代目柳家小さん
と5代目・三遊亭圓生「俳句をするのに、どうして川柳をやらないん
ですか」と声をかけた。寿山とは、明治33年(1900)、木綿問屋の五男
として裕福な家庭に生まれ、落語が好きだったことから、「旦那」とし
て噺家たちと親しく付き合う川柳人である。寿山の川柳は大学在学中の
21歳ころ、川柳六大家の活躍に合せるように始まったという。寿山の
指摘の通り小さんは俳句については造詣が深く、句作にも自信があった。
「俳句が詠めるんだから、川柳だって…」とその気になり、圓生も乗り
気で「寿山先生が教えてくれるというなら、噺家仲間にも声をかけてみ
ましょう」ということで、噺家による川柳の会が発足した。
名称は「鹿連会」になった。そしてその年、根岸の寿山宅を会場に第一
回句会が催され、そうそうたるメンバーが揃った。
メンバーの名はその時、提出された川柳にて紹介。

 

確信犯だと思う貴方との奇遇  前中知栄

 

拳を打つ男同士へ花が散り  黒門町の師匠ー桂文楽
鼻歌で寝酒も寂し酔い心地  柳家甚五郎ー古今亭志ん生
姐芸者こんな香水けなしてる  三遊亭圓生
縁起物お召しのドテラ使われる  ゲロ万ー金原亭馬之助
三階で見ればダンスは足ばかり  毒舌家ー桂文都
誘惑の眼すんなりと美麗な手  8代目小三治
押入れの枕が落ちる探しもの  柳家小さん
言い訳の顔は煙草の煙の中  紙切りの初代ー林屋正楽
また聞きは本当らしい嘘になり  玉井の可楽ー7代目三笑亭可楽
新所帯雑誌を読んで眠くなる  春風亭柳楽ー8代目三笑亭可楽

 

鼻の下由緒正しく持ち歩く  森田律子

 


 (画面をクリックすると画像が大きくなります)
「鹿連会」11人の噺家たち
左から圓蔵、柳枝、正楽、志ん生、文楽、圓歌、西島〇丸、坊野寿山、
右女助、馬生、小さん、三木助、圓生

 

それにしても弱冠30歳の寿山が自分よりも年上の、一癖も二癖もある
噺家蓮中を向こうに回して川柳指導をする。よくもまあ、「こんな会が
成り立ったものだ」と感心するばかりだが、実際のところ寿山の「力」
はなかなかのものだったようだ。しかし寿山の熱意とは別に、好きもの
とはいえ、気まぐれな人たちの集まり、この会(第一次)は、わずか2
年で自然消滅してしまう。
それから23年。寿山は53歳のとき、6代目・圓生が、同じ齢の寿山
に「先生戦前にやっていた川柳会をやってみたいのですが」「それなら
あんたが幹事だよ」と阿吽の息の会話から、圓生が奔走し、寿山ほか四
谷西念寺住職であり川柳会会長の西島0丸(れいがん)が加わり、落語
家11名、計13名のメンバーで「第二次鹿連会」スタートした。
こちらの会は、10年以上続き、毎月句会が開かれた。

 

納豆を食べて粘着質になる  新家完司

 

11名の落語家の作品。
指の爪生まれもつかぬ色になり  園生
借りのある人が湯船の中にいる  志ん生
鳥鍋を突っつきながら金の事  文楽
鼻歌も欠伸もうつるいい天気  右女助
ゼンマイを巻くにノッポは使われる  小さん
総絞り広巾に〆め金鎖  正楽
あれ以来宮本鍋蓋イヤになり  圓蔵
女房の帯から這入る年の暮  三木助
鉛筆の押し売りがくる昼下がり  馬生
ふぐさしは皿ばかりかと近眼みる  柳枝
神近が落ちて喜ぶ牛太郎  圓歌

 

うやむやで済ませた過去が通せんぼ  上田 仁

 


テレビ出演後の記念写真
古今亭金馬や徳川無声の顔も見える。    

6代目圓生、5代目小さん、寿山の三人の当会の感想がある。
(圓生)
「この会は噺家としての看板が揃っていたし、しかも句がおかしんだ」
(小さん)
「うまいんじゃなくて、おかしいのね」
(寿山)
「でも噺家さんは選者の言うことを聞いてくれない。私が出す席題が
気に入らないと、皆、平気で『悪い題だ』って文句いうんだもの」
圓生の言葉通り、鹿連会の同人には、昭和の名人上手がずらりと並ぶ。
そんな大看板が次々と「おかしい句」を拵えるのだから、世間の注目
を集めるのも当然だった。
31年6月、新築した寿山宅での例会が「落語家と川柳」の題でラジオ
東京から放送され。
32年には、雑誌「淡交」「鹿連会」の特集を組むため、句会の取材
にやってきた。それならばと「ミニ茶会」が始まった。
最年少の馬生が緊張で手を震わせながら茶を点て、皆、よそ行きの顔で
川柳を作った。
そして同じ年の暮、人形町末広の高座で鹿連会を開催した。
即席川柳がウケること、ウケること。
その上がりを待って四谷に繰り出し、ついでの忘年会として大騒ぎ、
「猫(芸者)三匹呼んだ」というエピソードまである。

 

大仏が歩きだしたら人気者  ふじのひろし




 
正月 馬生以外家族勢ぞろい

 

「いだてん」の縁で古今亭志ん生の川柳にページをさきます。
志ん生は、川柳の師匠・坊野寿山に川柳を愛するわけを話した。
「川柳くらい、いい道楽はない。安くて人に迷惑をかけず、腹も減らず、
落語にも役に立つ。倅が酔って遅く帰ったりすると、川柳をやれという
んです」
志ん生の句風は自然流。面倒な作句法などは一切なし。暮らしの中で
見聞きしたことを思ったまま、575にする。
ただそれだけなのに、何ともいえない可笑しみのある句を作る。
干物では秋刀魚は鯵にかなわない
サンマの干物を見て感じただけなのに…、昭和の落語名人たちが呆れ、
感嘆したというのだから、落語家はやっぱり面白くておかしい。

 

笑い過ぎて繁盛亭に住みつく蚊  森吉留理恵

 

戦前の貧乏時代、志ん生(甚五郎)は、お金にまつわる川柳が多い。
抱きついてキッスを見るに金を出し
「志ん生はどんな題が出ても、まず酒と結びつけて句を作る」
とは、鹿連会同人ほぼ全員の見解である。
パナマをば買ったつもりで飲んでいる
この志ん生のすすめで、俳句や絵画が好きだった長男の馬生は戦後、
同会の最年少同人となり、(最後まで最年少の身分は変わらず)
小間使いを兼ねて、いやいや川柳を作ったという。
その作風は「貧乏」が代名詞だった志ん生の家で育ったのに、「貧乏」
を扱った句が見当たらない。志ん生は貧乏そのものを楽しんだが、
馬生は「父ちゃんのおかげで苦労した」という思いが強かったようだ。

 

円周率1000桁言えるのに迷子  清水すみれ

 



志ん生の膝に池波志乃、おりんさんの膝に美濃部由紀子

 


「馬生の次女・美濃部由紀子さんの回想」
祖父・志ん生、父・馬生、叔父・志ん朝は、芸風も性格も全く違う三人
三様なら、趣味も三人三様でした。志ん生の「飲む打つ買う」は有名で
すが、さすがに年を取ってからは「飲む」だけは変わりませんでしたが、
趣味は「川柳と骨董道楽」に落ち着きました。
志ん生の骨董道楽は一風変わっていて、好きで買っても数日で飽きて売
ってしまい、売った先でまた何か買うの繰り返し、何が楽しかったのか、
私が思うに店の店主とのやり取りが楽しかったのではないでしょうか。

 ひっそりと電話を見てる女あり  馬生
 

父・馬生「川柳」もやりましたが「俳句」の方が好きでした。
「日本画・日舞・長唄小唄・カメラ」など多趣味でしたが、晩年はもっ
ぱら俳句でした。父と母は10代の頃、同じ日舞の稽古場で知り合い、
お互い惹かれ合いましたが、弟子同士の恋愛はご法度。そっと俳句で気
持ちを伝えあうという粋なお付き合いをし、結婚しましたので、恋女房
とゆっくりお酒を酌み交わしながら、俳句の話をすることを何よりの楽
しみにしていました。また父は、あの通りの破天荒な人だから、祖父の
替わりに父は10代の頃から家族を養い、祖父が亡くなるまで父親代わ
りに面倒を見てきました。それでも祖父からは、何の引き立てもなく、
自身の力で名人といわれる人になりました。まさに努力の人です。
叔父・志ん朝は志ん生が48歳のときの子。貧乏からやっと抜け出した
後の誕生でしたから何不自由なく育った大店の若旦那の様な人でした。
趣味もやはりそれらしく「車、ゴルフ、ジャズ」
15才の頃にジャズに凝り、ビニールを張った洗面器をいくつも並べ、
ドラムの練習だと暇さえあればボンボン叩き、やかましかった。
三人の共通点は三人とも芸の虫。それでも家で三人が芸談をする事は、
ほとんどなかったと思います。

 

秘書は有能水増しを匙加減   山口ろっぱ        

 

今回の文章は、この回想を語る美濃部由紀子さんと長井好弘さんの共著
『落語名人たちによる名句・迷句「昭和川柳」』を参照しています。
由紀子さんは、志ん生の長男・馬生の次女として、父のマネージャー兼
付き人をしており、写真を見るところ、姉の池波志乃そっくりの色っぽ
い美女である。義兄に中尾彬、叔父に古今亭志ん朝、長男は金原亭小駒
という落語・芸能一家の中で育った。
志ん生の次男・志ん朝(6代目志ん生)は第二次鹿連会には間に合わず、
「仔鹿会」を発会させている。
最後に「仔鹿会」の作品を少し紹介して終ります。

タクシーは客の片手を見逃さず  三升家勝二
岸総理涙をのんで国産車  柳亭小団次
泳いでる人まで逃げる俄雨  柳家小さん(4代目小せん)
トースケがよくて前座の長い夜  古今亭志ん朝
んでない隠居のふところ手  三遊亭余生(5代目圓楽)
くだらない司会でやっと売れてくる  林家三平
めざましにせめられている二日酔い  柳家小ゑん(五代目立川談志)
スタイルを気にする前座背がほしい  橘家升蔵(8代目橘家円鏡)

(志ん朝の「トースケ」とは楽屋の符丁で「ご面相」のこと。
 イケメンは前座でも、二日働けば吉原で遊ぶ金ができると)

 

タクシーで帰るタクシー運転手  くんじろう

拍手[7回]

膝の皿とり替えてから出直そう  笠嶋恵美子


 



 「落語によく登場する人物」
大家さん
地主から委託された雇い人。長屋の相談役。(長屋の花見)
若旦那
大体が放蕩息子で仕事が出きず、金食い虫。(長屋の花見)
大旦那
まじめで、商売一筋。ケチで小うるさい。(片棒)
権助
商家の使用人。地方出身で真面目で勤勉。(権助提灯)
与太郎
少々おつむが足りず、定職を持たないフリーター。(孝行糖)
熊五郎
真面目だが酒好きで、大雑把な性格。失敗が多い。(初天神)
甚兵衛
相談に乗ったり、仕事を紹介したりする性格のいい人。(火焔太鼓)
おかみさん
職人のおかみさんは働き者でしっかり者で焼きもち焼き。(文七元結)
(噺によって、人物像は多少の違いがあります)

 

ゲートインするなら原液のままで  酒井かがり

 


 (画像は拡大してご覧ください)
魚を打って歩く棒 手 振 り

 

「落語を一席」 芝浜 (いだてんつながり)

 

ここに出てくる主役は、熊さんとおかみさん。
長屋住まいの熊さんは「魚熊」と呼ばれる棒手振りの魚屋さんです。
腕もいいし、評判も上々ですが、酒好きなのが珠に瑕で、しかも
のべつまくない呑んでいたいため、仕事が疎かになってしまいます。
結局お得意さんは離れていき、本人も休むようになり、今も半月ほど、
仕事しないで休んでおります。
暮れも押し詰まったある日、「明日から一生懸命働く」という熊さん
の言葉を信じたおかみさんは、熊さんがすぐに働きに出られるように
支度を整えます。翌朝、熊さんを何とか起こして、市場へ買い出しに
送り出します。
日本橋の魚河岸が有名ですが、芝の浜にも魚市場があり、小魚を専門
に扱っておりました。

 

断崖に来ると押したくなる背中  森田律子

 

魚市場に着いても夜が明けませんし、まだ魚市場も開いておりません。
おかしいなァと思っていると、明六つを告げる切通しの時の鐘が
ゴーンと鳴りはじめます。
「かかあのやつ、時刻を間違えやがった…」
ようやく一時ほど時間を間違えて早く起こされたことに気がつきます。
仕方がないので浜へ出て一服していると、お天道様が出てきましたので
手を合せ。顔でも洗おうと思って海に入ると、足元に紐が見えます。
革の財布の紐であることがわかり、手に取ってみるとずっしりと重く、
驚いた熊さんは、一目散に財長屋に帰り、おかみさんに話します。
中身を確かめてみると、小粒(二分金)で50両も入っております。
これはもう仕事どころではありません。

 

司教様ワタリガニどすお導きを  山口ろっぱ

 

「これだけありゃあ、もう好きな酒飲んで、遊んで暮らしていけらぁ」
と大はしゃぎ。
「今日ばかりは思う存分呑んでもいいよ」と、
おかみさんにもすすめられ、酒を呑んで、ひと眠りして、湯屋の帰りに、
飲み友達を連れてくるし、酒と仕出し料裡を届けさせて、
どんちゃん騒ぎです。
あげくの果て熊さんは、すっかり酔い潰れて寝てしまいます。
日の暮れの頃、おかみさんに起こされ
「酒と仕出しの支払いをどうするの」
と尋ねられます。
「50両渡したじゃねえか」と答えると
「知らないよ」と言われてしまいます。
おかみさんは、熊さんが拾ったお金のことを本当に知らないようです。


 

あらいやだ押すと凹んだままになる  小林すみえ

 


「朝、芝の浜で拾ってきた財布を預けたじゃねえか」と、
言ってみても
「なに寝ぼけて馬鹿なこと言ってるんだい。夢でも見たんだろう。
この家のどこにそんな五十両なんて金があるんだい。
しっかりしてくれなきゃ困るよ」と、
言い返されてしまうなど、埒のあかない同じようなやりとりが続きます。
何度も「おかしいなァ」と思いますが、おかみさんが、あまりにも
はっきりと言いますので、自分の方が間違っていると思い直し、
「金拾った夢なんて、われながら情けねえや。これというのも酒のせいだ。
よし、もう酒はやめて商売に精と出すぜ」
と反省、改心し、明日からは酒を止めて、一生懸命働くことを約束します。

 

嘘少しまぜて話を丸くする  上田 仁



(画像は拡大してご覧ください)
商人や侍などで賑わう豊島屋商店前

 

もともと腕がよくて、いい魚を仕入れてきますから、
お得意はどんどん帰ってくるし、商いも順調です。
三年もしないうちに長屋住いの棒手振から、表通りに見世を構えるよう
になります。
そして、ちょうど三年目の大晦日の夜、熊さんが湯屋からさっぱりして
帰ってくると、何故か畳が新しくなっています。
そして、おかみさんが年越し祝いの福茶を入れながら、あらたまって
「見てもらいたいものがある」と言い出します。
「この財布、見覚えがあるかい」と言って、
おかみさんが出してきたのは、50両入った革の財布です。
「へそくりとしては随分と貯めこんだもんだなァ」と、
感心いたしますが、やはり見覚えはありません。

 

時刻表にはなかったバスがやってくる  竹内ゆみこ

 

「三年前にお前さんが芝の浜で拾った財布だよ。
夢なんかじゃなかったんだよ…」
おかみさんの言葉から、ようやく3年ばかり前に、芝の浜で革の財布を
拾ったことを思い出します。
「なんだと、こん畜生め!」
熊さんがむくれるのは当たり前、そこでおかみさんが
「ちょっと聞いておくれ。あの時、お前さんがこの50両で遊んで暮ら
すって言うから心配になって、お前さんが酔いつぶれて寝ている間に、
大家さんに相談に行ったんだよ。そうしたら、
≪拾った金なんぞを猫糞したら手が後ろ回ってしまう。
おれがお上に届けてやるから、全部、夢のことにしてしまえ≫と、
言われて、
お前さんに嘘ついて夢だ、夢だ、と押し付けてしまったんだよ。
自分の女房にずっと嘘をつかれて、さぞ腹が立つだろう。
どうかぶつなり、蹴るなり思う存分にやっとくれ」

 

不安的中右脳左脳がショートする  宮井いずみ

 

ちょっと間をおいて熊さんは、
「おうおう、待ってくれ。
おれがこうして気楽に正月を迎えることができるのは、みんなお前の
お蔭じゃねえか。おらぁ、改めて礼を言うぜ。この通りだ。ありがとう」
と言います。それを聞いたおかみさんは
「そうかい、嬉しいじゃないか……久しぶりに一杯飲んでもらおうと
思って用意してあるんだよ。さあ、もうお燗もついてるから…」
「えっ、ほんとか、さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。
…じゃあ、この湯呑みについでくれ。おう、お酒どの、しばらくだなあ、
たまらねえや どうも、だが、待てよ」
「どうしたんだい?」
「よそう、また夢になるといけねえ」

 

言わぬが花過去はきれいに折りたたむ  山本昌乃

 

酒に溺れて仕事を怠けてしまった人でも、心を入替えて真面目に働けば、
いい暮らしが手に入るという教訓と。
酒が過ぎるとどうなるかという反面教師も含んだ噺。
内助の功、嘘も方便というキーワードも含まれている。
ちょっとほろっとさせる人情噺。いい噺に仕上がっています。

 

あざやかな指摘人生やり直す  三村一子

拍手[3回]



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