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川柳的逍遥 人の世の一家言
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嘘をつく舌の手入れをおこたらず  井上一筒


  釜山城

「文禄・慶長の役」
                いあく
官兵衛は隠居後も秀吉の帷幄(陣幕)にあり、

小田原攻めで講和交渉に尽力した。

これで念願の天下統一が成り、戦乱の世は終わるはずだった。

ところが、秀吉は「朝鮮出兵」を断行。

文禄元年(1592)4月、釜山に上陸した小西行長の一番隊は、

最後通牒を朝鮮側に渡したが、その返事は届かなかった。

そこで小西軍は翌日から攻撃を開始する。

こうして「文禄の役」が始まった。

零という風が終着駅に吹く  板野美子


  小西行長

官兵衛もまた肥前・名護屋城の縄張りを行った上、

作戦指揮官として朝鮮に渡海することになる。

ところが小西行長をはじめとする緒将が好き勝手な戦をするため、

思い通りの采配を執ることができない。
            とんね              
そんなところへ、東莢にいた官兵衛を訪ねて、
             はんそん
石田三成がはるばる漢城からやってきた。

が、官兵衛は浅野長政と碁を打っており、

待たされた三成は立腹して帰ってしまう一幕があった。

官兵衛にとって朝鮮出兵は、無益な戦いでしかなく、

帰国する口実を得ようとしたとも考えられる。

手際よさすこし度が過ぎないですか  岩佐ダン吉

実際、三成が書状でこれを秀吉に訴えたため、

官兵衛は「釈明する」と言って、さっさと無断帰国してしまった。

だが翌年になると戦況は日本軍にとって不利な展開になってきた。

そこで再び官兵衛は渡海して、日本式の城郭の縄張りを担当。

現地で「倭城」と呼ばれる難攻不落の城を築いたのだ。

だが総奉行としてやってきていた三成との確執を生じ、

ここでも官兵衛は無断で帰国してしまった。
                           ざんそ
三成はこれを敵前逃亡と見なし、秀吉に讒訴した。

君の目が心拍数を押し上げる  武本 碧

秀吉は軍令違反を犯した官兵衛に激怒し、蟄居謹慎を命じた。

「天下統一がなった今、秀吉にとって自分は目障りでしかない」
                     えんせい
そう読んだ官兵衛は、即座に剃髪出家して、如水円清と号し、

野心がないことを世間に示した。

やがて朝鮮での戦争は膠着状態となり、休戦交渉が始まる。

日明両国の使者は交渉が穏便に運ぶように、

虚偽の報告書を作成した。

わたくしの中に私を打つ私  たむらあきこ

文禄の役における休戦交渉を穏便にすませようとする報告書が、

虚偽であることを知った秀吉は怒り、再度の朝鮮遠征を決断する。

「慶長の役」(1597)である。

如水は小早川秀秋の軍監を命じられ、釜山に着陣する。
 うるさんわじょう
「蔚山倭城の戦い」で黒田長政加藤清正の救援に出かけている隙に、
やんさん
梁山城に明の大軍が来襲した際、

官兵衛は1500の兵をもって、敵兵を打ち破っている。

だが、日本の侵攻が行き詰る中、秀吉が死去の報が入る。

そして朝鮮出兵は、慶長3年にようやく終わりを向かえることになる。

だんどりは360度を視野に  池 森子


 建設途中の蔚山倭城

慶長2年11月中旬ころから、官兵衛と加藤清正が縄張りを行い、
毛利秀元・浅野幸長・清正の軍勢を中心に蔚山倭城の築城を始める。

「蔚山倭城の戦い」

築城を急ぐ日本軍に対して、明・朝鮮連合軍5万7千の兵が襲撃し、

攻城戦をしかけてくるが、加藤清正を始め日本軍は鉄壁の守りで、

明朝連合軍に大きな損害を与えた。

そのため明朝連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。

未完成の蔚山城で日本軍は、食料不足の籠城戦となり苦境に陥る。

年が明けた慶長3年1月になると蔚山城は飢餓により、

落城寸前まで追いつめられていた。

しかし3日、毛利秀元・黒田長政らの援軍が到着し、

翌日から日本軍の水陸からの攻撃で、

明・朝鮮連合軍を敗走させ多大の損害を与えて勝利した。

まもなく城が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留、

四国・中国衆と小早川秀秋は一時帰国し、翌年の再派遣に備えた。

秀吉は慶長4年に再び大軍を派遣して朝鮮掃討を指示していたが、

8月18日に死去し、行長ほか派遣隊は朝鮮からの撤収が始まる。

自画像の中を流れてゆく時間  三宅保州

「官兵衛の次男」

名は熊之助

天正10年(1582)、賤ヶ岳の合戦時に山崎城で誕生した。

兄・長政とは15歳差。

慶長2年、順調に成長をした熊之助は、16歳のとき初陣として、

父・官兵衛と兄・長政が慶長の役を戦う朝鮮の地へ、

母里太兵衛の嫡男・母里吉太夫、黒田一成の弟・黒田吉松

を従え中津城から船で向かった。

ところが、不幸にも玄界灘で暴風に見舞われ、

船は沈没し、元服を前に熊之助は家臣とともに命を落としてしまう。

母・はこの知らせを大阪の天満屋敷で聞き知ったという。

前髪がそろりと旅に出る話  和田洋子

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