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川柳的逍遥 人の世の一家言
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左巻きのソフトクリームは甘くない  田口和代


  秀 次

文禄2年、秀吉に実子・秀頼が生まれると秀吉から疎まれるようになり、
謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹を命じられた。

「羽柴秀次」

羽柴秀次は、秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。

天正19年(1591)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。

秀次は11月に秀吉の養子となり、12月に関白に就任。

関白就任後の秀次は、聚楽第に居住して政務を執ったが、

秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。

その後、朝鮮との戦に専念する秀吉の代わりに

内政を司ることが多かった。

しかし、文禄2年(1593)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、

秀次は秀吉から次第に疎まれるようになる。

バイオリズムバッチリのはずやったのに  雨森茂喜

文禄4年、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、

7月3日、聚楽第で秀次は秀吉から「高野山蟄居」を命じられる。

7月8日、秀次は謀反についての釈明の為に、

秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、

対面することが出来ず、同日、高野山へ入る。

それから1週間後、秀次の許へ福島正則・池田秀氏・福原直堯らが訪れ、

秀次に対し秀吉から、切腹の命令が下ったことを伝えられる。

また、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々も 

切腹を命じられる。

バリトンで届いた神様のお告げ  竹内ゆみこ


   瑞泉寺絵縁起

(「秀次事件」の16年後に角倉了以が荒廃したその「塚」の跡に、
 江戸幕府の許しを得、墓地と堂を建立した。
 寺号は秀次の戒名から「瑞泉寺」と名付けられた)

7月15日、秀次は雀部重政の介錯により切腹し、

そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。

秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、

秀次の首は三条河原へ送られた。

8月2日には三条河原において、秀次の首が据えられた塚の前で、

5人の遺児(4男1女)をはじめ、側室・侍女ら39名が処刑された。

止まった時計雨は降りつづいてる  柴田桂子

約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、

遺体は一箇所に埋葬され、

埋葬地には、秀次の首を収めた石櫃が置かれた。

その後、ここは、「畜生塚」と呼ばれるようになる。

この秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611)に、

豪商の角倉了以によって、再建されるまで、

誰にも顧みられることなく放置されていた。

凹凸の道をくねると墓地にでる  和気慶一


 専称寺駒姫肖像画

「駒 姫」

この処刑された秀次の側室のなかに、駒姫という女性がいる。

駒姫は、その類稀な美しさから父母に溺愛されて育った。

時の関白・秀次が、東国一の美少女と名高い駒姫の噂を聞き、

秀次は「側室に」と駒姫の父である最上義光に熱望した。

義光は丁重に断りを入れたが度重なる要求に折れ、

「15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせる」と約束をする。

文禄4年(1595)、約束の15歳になった駒姫は、

秀次のいる京の聚楽第に向かう。

そして、駒姫が京都に到着して間もない7月15日、

最上屋敷で駒姫は、「秀次事件」の報を聞くことになる。

ここからは神へ近づく登山道  赤松ますみ

「すでに秀次の側室である」 とされた駒姫は、

8月2日、他の側室達と共に、三条河原に引き出されたのである。

実質的には、聚楽第には一歩も足を踏み入れることなく、

側室として、輿入れすうる前日であった。

義光は必死に愛する娘の助命嘆願に走り廻り、

各方面から不条理な処刑は反対という大勢の賛同の声も得た。

秀吉もついにこれを無視できなくなり、

「鎌倉で尼にするように」 と早馬を処刑場に走らせた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃


      専称寺と駒姫

ところが、後一歩のところで間に合わず、処刑はすでに終わっていた。

彼女らの遺体は、遺族が引き渡しを願ったが許されず、

その場で掘られた穴に投げ込まれ、

さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれたのである。

駒姫の死を聞いた母の大崎夫人も、

悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。

自ら命を絶ったと推察されている。

この惨劇事件より、義光は反豊臣の急先鋒となり、

慶長出羽合戦では奥羽における東軍の要として活躍した。

またこの一件より、大名家の豊臣家に対する不信感を増幅させ、

豊臣政権の寿命を縮める一因ともなったのである。

(駒姫の死の翌年、義光は高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依、
    専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした)

濡れた目に何を映すか冬の馬  合田瑠美子

さらに慶長3年(1598)八町四方の土地と寺領14石を寄進し、

城下最大の伽藍を建立、敷地に真宗寺院十三ケ寺を塔頭として集め、

のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。

この寺には、山形城より駒姫の居室が移築されており、

大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されている。


  駒姫辞世和歌懐紙

この辞世は彼女愛用の着物で表装され、
他の処刑者のものとともに、京都国立博物館に保存されている。

"罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき"

 (何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、
     弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。
     なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、
      いっしょに消えていくのですから)

この橋を渡るとやさしい風になる  神野節子

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