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川柳的逍遥 人の世の一家言
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晩秋のコントは塩分控えめに  本多洋子 


  官兵衛の和歌

天正15年(1587)7月、官兵衛は豊前の国に入封して、まもなく、
                           くぼてさん
情報網に長けていた山伏の力を頼みにして求菩提山に上り、

挨拶方々友好関係を築いた。

その後も官兵衛は幾たびか求菩提山を訪れており、

求菩提山座主と過すひと時は、官兵衛の心を癒す唯一のものであった。

この「山深く」の歌は、

そこで催した歌会でを詠んだ歌であろうといわれている。



「如水円清」

官兵衛が「如水」と名乗ったのは、

天正17年(1589)家督を長政に譲って隠居の身となってからで、

44歳の時であった。

正式には「如水円清」と号したが、通称で如水と呼ばれた。

ルイス・フロイスの記述によると、

『官兵衛は剃髪した。

    権力・武勲・領地・および多年に亘って戦争で獲得した功績、

    それらすべては今や、水泡が消え去るように去って行った

     といいながら、
ジョスイ、すなわち「水の如し」と自ら名乗った』
                                                              
どつかれる寸前サボテンに化ける  井上一筒               

「上善如水、水善利万物而不浄、居衆人之所悪」

(上善は水の如し、水はよく万物を利して争わず、衆人の忌む所にある。

     理想的な生き方をしようと思うなら、、水のあり方に学べ、

     水は万物に恩恵を与えながら、自分は人のいやがる低い所に流れていく)

これは『老子』の一節である。

この一節は,さまざま人にも影響を与え、

とくに中国の古典にもさまざまに、応用されている。

深層心理読み取れますかバーコード  オカダキキ

【孫子兵法】
                                                                                                                      おもむく
「夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに趨く。

 兵の形は実を避けて虚を撃つ。

 水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。

 故に兵に常勢なく、水に常形なし」

【礼記】ー「君子交淡如水」

「君子の交わりは淡きこと水の如し」

(才徳のあるものの交際は水のようにさっぱりしており、

    濃密ではないが長続きする)

透明になるまで自転しています  合田留美子

水のような清らかさや柔軟さを求めて改名に至った如水は、

ほどなく「茶の湯」に目覚める。

官兵衛と茶の湯との出会いは遅く、

秀吉の小田原討伐に従軍した折のことだった。

改名の翌年のことだ。

それまで、無骨な如水は丸腰になって狭い茶室に入るのは、

無用心と考えて敬遠していたというのである。

あるとき官兵衛は、秀吉から茶室に招かれ、しびしぶ茶室に入った。

しかし不思議なことに、秀吉が茶を点てる気配はまったくなく、

むしろ戦に関わる密談に終始した。

ここで秀吉は官兵衛に対して次のように述べた。

ゆっくりと開く明日も明後日も  谷口 義

「これこそが茶の一徳(得)というものである。

   もし茶室以外で密談を交わせば、人から嫌疑を掛けられる。

   しかし、茶室で密談を行えば、人から疑われることはない」

この言葉を聞いた如水は、茶会の重要性に気付き、茶の道に入った。

この話の舞台になったのは、

天正18年(1590)の小田原合戦の頃の話であるといわれている。

秀吉は千利休を茶頭として呼び、たびたび茶会を催したが、

官兵衛もそれに出席して感心を深めたという。

背番号3は漢方薬になる  小林満寿夫


    利 休

"底井なき心の内をくみてこそお茶の湯者とは知られたりけれ"

"万代の声もけふよりまし水の清き流れは絶えじとぞ思ふ"

ある茶会で秀吉が詠んだものに対し、返したのが下の歌だ。

この頃、秀吉は京都に「聚楽第」という大邸宅を構えたが、

その敷地内に家臣の屋敷も建てて、そこに利休を住まわせている。

同じ天正18年、利休はそこへ秀吉を招いて茶会を催したとき、

如水もまた、津田宗凡らとともに積極的に参加している。

如水の屋敷は、千利休邸と隣り合っていたことで、

直接に茶道を学ぶ機会も多く、親密度も増していったという。

この先も空気でいようあとうん  美馬りゅうこ

秀吉はやがて世継ぎと考えていた養子の羽柴秀次に聚楽第を譲り、

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は何度か碁会、将棋会をひらいている。

将棋は官兵衛も相手をさせられたおいう。

秀次は相当強かったようで如水は負けることも多かったが、

「お前、わざと負けただろう。もう一勝負しろ」

といわれたことがある。

半眼で話ふるいにかけている  竹内いそこ

秀吉は将棋が下手だったが、対局者は天下人が相手なので、

わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で大げさに、

「勝った、勝った」と喜ぶ。

如水は二人の器量の違いを見て、

「秀次は後継者の器ではない」と悟ったという。

如水の判断が正しかったのか、文禄4年に「秀次事件」が起き、

秀次は高野山に追放のうえ切腹させられた。

のぼったら降りんならんの忘れてた  山田葉子

「如水の日常」

家康の次男である結城秀康とも、如水は親しく交流している。

秀康は小牧・長久手の戦いの和睦の際、

人質として秀吉に差し出され、彼の養子となっていた。

しかし、天正18年に秀吉に実子・鶴松が誕生すると、

北関東の名門・結城晴朝の養子に出された。

二度目の養子である。

その時に縁組の世話をしたのが如水だった。

父を一盛 祇園囃子の添え物に  山口ろっぱ

以来、秀康は如水を頼りにし、

伏見の屋敷に住んでいた如水を三日に1度は訪ねたという。

隠居後、如水は屋敷に身分の低い者の子供らが、

泥のついた足で廊下を走ったり、相撲を取ったりして、

襖や障子を破ることがあったが、怒ることも叱ることもなかったという。

隠居して、名の通りに水の如くに生きる彼の生き様を慕う人も多かった。

途中下車して煙突になっている  たむらあきこ             

【余談】


官兵衛の短冊ー桜狩りの和歌 (画像をクリックすると拡大されます)

  "山深く分入花のかつ散りて 春の名残もけふのゆふ暮"     円清

法名「円清」と署名が確認できる。
(中津平野では、もう桜は終わってしまった。
   花を求めて求菩提山の山深く分け入ると桜の花は咲きつつも、
   はや散り始めている。
   春の名残もいよいよ尽きようとしている今日の夕暮れだなあ)


  官兵衛従者の和歌

官兵衛と同行した従者が詠んだ短冊が13首残っている。


豊前国に入封直後、求菩提山の山伏たちに出された命令書

秀吉からの禁制札が史料にあり取次ぎ者として、
官兵衛の署名・花押が記されている。

思い出の山で背伸びをしてごらん  立蔵信子

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