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川柳的逍遥 人の世の一家言
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魔がさして生まれた日から主人公  桑原すヾ代


 萩・反射炉

鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉。

長州藩の軍事力強化の一環として導入が試みられるも未完成に終る。

しかし、反射炉が現存するのは韮山と萩の二ヶ所だけであり、

貴重な文化遺産になっている。

「地雷火」


 松下村塾講義風景

松陰が松下村塾で塾生たちに、教えを施していた期間は2年余り。

建物を構えての正式な形での塾運営は、

安政4年(1857)11月から翌年12月までの、

約1年間に過ぎなかった。

その間に何があったかといえば、まず安政5年6月に、幕府が、

「日米通商条約」をアメリカと結び、正式に開国したことだ。

大老・井伊直弼は当初、天皇の許可が下りるまで、

なるべく条約の調印をしないよう命じていた。
                                   ただなり
しかし米の総領事ハリスと交渉にあたっていた岩瀬忠震らは、

「幕府の外交に勅許は不要」として、調印に踏み切った。

交渉を委任した以上、井伊直弼も開国を了承するしかなかった。

緩やかに確実に病む水の星  斉尾くにこ

これに対し怒ったのが尊皇攘夷を唱える知識人や志士たちである。

彼らは京都に向かい、朝廷に対して幕府の横暴を訴え出たのだ。

「反幕府」の声は全国に飛び火し、各地で議論が沸騰した。

この動きに朝廷の一部の公卿たちも同調し、

井伊直弼の排斥運動に出る。

朝廷が政治に関与してきたのは前代未聞のことだった。

身の危険を察した井伊直弼は、幕権を知らしめるため先手を打った。

京都に集結している尊攘派や幕府批判の志士たちを静めるべく、
        まなべあきかつ
腹心の老中・間部詮勝を京都に派遣。

騒ぎを起こしていた諸藩の志士をはじめ皇族、公家、僧侶、藩主、

幕臣、学者、町人を片っ端から捕らえ、粛清させたのだ。

その数、実に百名以上、「安政の大獄」のはじまりである。

雲母から作った真っ黒い画鋲  井上一筒


   村塾記

長州では松陰が、やはり幕府に対して憤りをあらわにしていた。
 
間部詮勝
が朝廷に乗り込んで、安政の大獄を行なっていることを

知った松陰は、尊皇攘夷の思想のもと、

「間部を暗殺すべし」と叫び、藩の重臣・周布政之助に宛てて

「武器・弾薬を提供していあただきたい」

と書き送ったほか、塾生にも決起を促がした。

松陰自身もまだ血気盛んな年頃。

言動がエスカレートし、いよいよ歯止めが利かなくなった。

驚いたのは当の塾生たち。

「先生、落ち着いてください」といった血判状を出して諌めた。

ハンカチをきれいに畳む愉快犯  くんじろう

後に倒幕思想を爆発させる長州も、この時はまだ、

そこまでの過激な行動に及ぼうとする者はいなかった。

だが、武器の貸与まで願い出た行動を危険視した藩は、

再び野山獄に松陰を投獄した。

その報は、京都や江戸にも届いた。

くちうらを合わせてからの多事多難 佐藤美はる

(拡大して読んでください)

「小野為八」


為八は、文政12年(1829)藩医・山根文季の長男として生まれる。

その後、藩医小野家の養子となるも医業にはつかず、

15歳で松陰に入門。

安政2年(1855)に、外国船を警戒する三浦半島において、

警備の仕事につき、砲術家としての理論と実践を身につけた。  

安政5年(1858)、30歳のとき、ふたたび松下村塾をくぐる。

そして松陰が老中・間部詮勝の要撃を計画し、

「地雷火」の実験を試みた際、

幽閉の身の松陰を背負って現場に行き、

この実験を見学させたという。

ひらかないことを願って「ひらけゴマ」 清水すみれ


    長州砲
この長州砲は郡司鋳造所で製造された

文久3年(1863)長州藩が下関海峡で外国船を攻撃した攘夷戦では、

癸亥丸に乗り込み、砲戦の陣頭指揮をとった。

同年奇兵隊が結成されると、砲術の教師として兵士たちを指導。

その後、慶応2年の長州戦争などにも、砲隊を率いて活躍した。  

維新の後、写真や絵師(雅号・「等魁」)をしながら、

明治40年まで生きた。

あれは幻無かったことにしてしまう  籠島恵子


「郡司鋳造所遺構広場」
階段上にあるのが再現された実物大の「こしき炉」

嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけとして、

幕府が公布した「洋式砲術令」によって、

同年11月、萩藩は「郡司鋳造所」を藩営の大砲鋳造所に指定し、

大量の青銅製大砲を鋳造。  

鋳造された大砲は、江戸湾防備のため、

三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ、外国船の警戒にあたる。

また文久3年(1863)には、下関海峡での外国船砲撃、

元治元年(1864)、同海峡での下関戦争にも使用された。

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

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