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川柳的逍遥 人の世の一家言
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北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし


  萩御城下絵図 (慶応元年)

北が日本海に面した萩の城下町。
中央部やや右よりに藩校・明倫館があり、
杉家、松下村塾は東のはずれにあった。

「長州の底力」

幕末を迎え、徳川幕府の権威が衰えるに従って、

歴史の表舞台に登場してくるのが「雄藩」という存在。

経済力・兵力に優れ影響力の強い藩をそのように称した。

とりわけ、外様大名は、戦国時代からの家臣団の結束力が高く、

幕府への反発力も強かったため、いくつかが雄藩へと成長を遂げた。

幕末には薩摩藩・肥前藩・土佐藩などが時代をリードした。

そして、その雄藩から優れた「志士」が現れるのである。

生きてゆく宇宙人など待ちながら  小川佳恵


    志 士

長州藩も雄藩のひとつであった。

関が原の戦い後、毛利家は120万石から37万石に減封された。

石高とは土地の生産性を石という単位で表したもの。

「一年間にそれだけの人を養える収入がある」

ことを示した数字である。

これが4分に1になっては、

今までのように、大勢の家来を養うことは不可能になる。

これ以上がんばれないと泣くわさび  竹井紫乙

毛利輝元は広島から長門の萩へ移る際、

「ついてこなくてもよい」 と言ったが、

元就以来からの家臣たちのほとんどが付き従った。

三方を山に囲まれ、日本海に面した痩せた土地である「萩へ」

移転も徳川幕府の命令だった。

道中は家財道具を運ぶ人の群で混雑し、

下級武士の中には、農民になって山野を開墾する者も多かった。

神さまはずっと熟睡中である  新家完司

長州藩では、新年拝賀の席で家老が、

「今年は倒幕の機はいかに」

と藩主に伺いをたて、それに対し、

藩主は「時期尚早」と答えるのが習わしになったという俗説もある。

そのように結束の強い家臣団だけに、

幕府に届け出た37万石は減封された慶長12年(1607)から、

わずか6年後の慶長18年には50万石、

貞享4年(1687)には、80万石を超えるまでになった。

長州は幕府に届け出た石高より、

はるかに高い生産高を実収入として得るようになったのである。

影がまだ人の形でよく弾む  嶋澤喜八郎


  村田清風

幕府が行なった「天保の改革」にともない、
長州藩の財政改革に取り組む。

庶民層に対しても教育を奨め、藩校・明倫館の拡大も行なった。
周布政之助がその志を継いだ。

そして何より、長州が雄藩になりえたのは、

生産高の向上ばかりでなく、「財政改革」に成功したためである。

その改革の指導者が、村田清風である。

清風は毛利斉房から敬親まで五代にわたって仕えた。

長州藩は長らく慢性的な借財に苦しんでおり、

歳入額に対して約20倍の借金があった。

清風は徹底した「倹約」および、「武士の負債整理と士風の一新」

「四白政策」の振興を行なう。

その結果、長年の弊害を取り除いて出費を節約し、藩政は一新。

士気は大いに高められ、

後に長州藩が「雄藩となる基礎を築き上げた」と評価される。

四白政策=紙・蝋・米・塩の振興を行なう政策。

深呼吸すれば咲けるのかも知れぬ  木村徑子


  鍋島閑叟

第10代鍋島藩主。
役人を「5分の1に削減」し、磁気・茶・石炭などの「産業育成」

交易に力を注ぎ財政を改善。
アームストロング砲など最新式の大砲を導入し、

「鉄砲の自藩製造」にも成功した。

ついでに言えば、薩摩藩も500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて、

破綻寸前だった。
              ずしょひろさと
これに対し、家老の調所広郷が改革にあたり、

薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えができるまでに財政が回復した。
                  かんそう
また肥前藩では藩主の鍋島閑叟が自ら財政改革に乗り出し、

軍備の近代化に成功した。

一方、徳川幕府でも同時期に「天保の改革」として、

財政再建のための諸政策を実施したが、

全国的な効果が上げれなかった。

雄藩が各々の範囲で財政再建に成功したこととは対照的である。

いっぽんのポプラがあれば空広し  高橋かづき

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