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川柳的逍遥 人の世の一家言
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腐乱するまでA 4に色を塗る  くんじろう


  井伊直弼

「井伊直弼」

井伊直弼は先々代の藩主・井伊直中の14男として彦根に生まれる。

兄弟が多く庶子であったため、藩政の表舞台に立つ機会はなく、

世捨て人のように、諦観を抱えながら生きていた。
               なおあき
そんな時、兄で藩主、直亮の子が急逝する。

直亮には他に嫡子がなく、

「井伊家の血を絶やすことはできない」

と、考えた彦根藩は、直弼に白羽の矢を立てた。

経験上から枯木に花は咲きません  勝比古

こうして井伊直弼は嘉永3年(1850)直亮の死を受けて、

第15代藩主となる。

藩主に就任すると、「藩政改革」を実施して、名君と呼ばれた。

しかし不安定な幕政や外国船による脅威など、

こころ休まる暇はなかった。
たまりのま
溜間詰大名の筆頭となった直弼は、黒船来航に伴う江戸湾防備で活躍。
まさよし
この頃、江戸城内は水戸藩ら尊王攘夷派と

老中・堀田正睦ら開国派の対立が深刻な問題となっていた。

不遇だった青少年期から諸国の情勢を学んでいた直弼は、

もともとは「鎖国論者」だったが、わが国を守るためには

列強との通商貿易が必要であるとして「開国」を主張。
                           よしとみ
また、将軍継嗣問題では紀伊藩主・徳川慶福を推挙し、
               よしのぶ
直弼ら南紀派は、一橋慶喜を推す一橋派と対立した。

ライオンの尻尾こすって火をおこす  岡田幸雄



南紀派の政治工作によって、安政5年(1858)に直弼は、

「大老」に就任する。

「通商条約」の締結を求めるアメリカ総領事・ハリスに対し、

直弼は孝明天皇の勅許を待ち、朝廷や幕府、諸藩をまとめた上で

調印に臨もうとしていたが、実現することはなかった。

同年「通商条約」に調印。

これが「違勅調印」にあたるとして、

直弼は一橋派や尊皇攘夷派から攻撃を受ける。

狙われているからツケマツゲをしてる  田中博造

一方の幕府は、そうした反対勢力を粛清する。

いわゆる「安政の大獄」を断行。

直弼はこの弾圧の首謀者とみなされ「井伊の赤鬼」と揶揄された。

外国の脅威を知る直弼は、時勢に「鬼」にならざるを得なかった。

憤怒した志士から命を狙われる存在となった直弼は、

安政7年(1860)桜田門前において、

水戸脱藩浪士ら18人に襲撃され、命を落とした。

この「桜田門の変」によって、江戸幕府の権威は大きく失墜、

尊皇攘夷運動が激化することとなり、

世はさらなる激動期に入っていく。

ロッキングチェアー速報はテロと言う  上嶋幸雀


 間部詮勝像

「青鬼・間部詮勝」
 まなべあきかつ                                       あきひろ
間部詮勝は文化元年(1804)鯖江藩5代藩主・詮煕の3男として誕生。
えつのしん
幼名は鉞之進。
                           あきさね
文化11年7月、兄である6代藩主・間部詮允の急死により、

11歳の若さで7代藩主の座につく。

文政9年(1826)6月、22歳の時。奏者番として幕政に関わる。

奏者番=一万石以上の譜代大名が任命される職で、
年始や節供などに大名が将軍に謁見するときその取次ぎ。
その姓名や進物を披露するなど、殿中の礼式を取り仕切った。

以後、奏者番の任命を皮切りに、詮勝は順調に出世階段を上っていく。

天保元年(1830)寺社奉行見習い(27歳)、翌年、加役に昇進。

天保8年に大坂城代に就任(34歳)、翌年には京都所司代を務める。

そして、天保11年1月、詮勝は37歳で、

幕閣の最高位である西丸老中となる。

一本の靴紐として参加する  筒井祥文

しかし天保14年、「天保の改革」を進めていた水野忠邦から、

病気を理由に西丸老中職を解任され、幕政から離れる。

地元に帰った詮勝は、悠々自適の中で、琴や碁、書画に親しむ一方、

広く蘭学者と接し、海外事情の研究を進めた。

また公園をつくったり、「学業奨励」など、「藩政改革」

「海防策」を整え、「洋式兵制の採用」

藩校・「進徳館」を設置している。

ボクの頭に中二階をつくる  本多洋子

安政5年(1858)、井伊直弼に罷免された堀田正睦に代わる形で

詮勝はふたたび、幕閣の老中の座に座ることとなる。

世に言う「井伊の赤鬼」に並ぶ「間部の青鬼」のタッグ誕生である。

詮勝にとって、実に15年ぶりの幕政への復帰になった。

大老からは早速、「老中勝手掛兼外国御用掛」の職を任された。

当時、日本は開国をめぐり是非の論議が激しく交わされ、

国情が不安定な時である。

このようなときに詮勝は老中として、外国問題を託されたのである。

即戦力託されました紙コップ  徳山泰子

時代の流れに逆らえず、詮勝は直弼の命で「安政五カ国条約」に調印。

詮勝の独断にも見える形で、朝廷の許可を得ず、条約調印を果した。

その後、詮勝は朝廷に参内し、条約調印の説明をしているが、

「朝廷無視・条約調印」に怒る尊攘派の暗殺の対象にされる。

そこで幕府はその抵抗派を摘みとっていく政策を断行する。

それが「安政の大獄」である。

亀甲を焙るヒトラーが飛び出す  井上一筒



その後詮勝は「安政の大獄」の志士の処分をめぐって、

厳罰主義の大老・井伊直弼と意見を異にし、老中を解職され帰郷。

この時、詮勝は志士の命を擁護したという。

青鬼は意外と「いい鬼」だったのだ。
あきざね
そして、文久2年(1862)に藩主の座を詮実に譲り、

雅号を「松堂」とし詩とか絵画を嗜み、控えめな余生を過ごしつつ、

明治17年11月28日まで生きた。享年81歳。

 なお、松陰が「間部詮勝襲撃計画」を画策したのは、

  松陰が京都から戻った塾生から、

  詮勝が朝廷無視の主謀者と聞いたから といわれる。

先ず生きる色や形はそのうちに  嶋沢喜八郎

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