金星をメガネケースに仕舞いこむ 河村啓子
文
「文の結婚」
久坂玄瑞は美男子、声も良く、当時では珍しいほどの長身、
現代風にいえば、超イケメンというところである。
しかし、杉家の末の妹に生まれ、
松陰には特に可愛がられ、
愛情いっぱいに伸び伸びと育ち、当時の女性としては稀なほど、
兄から学問の手ほどきを受けた
文である。
一方、玄瑞はまっすぐな性質で博学であるが、
父母や兄とは早くにしに別れ、天涯孤独の身の上。
二人の共通点と境遇の違いは、
ほどよく二人の愛を育んでいけそうな予感を持たせる。
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当時、結婚式の日までお互いの顔も知らないという結婚も
珍しくなかった時代だが、
玄瑞は、早くから松陰の弟子として
「松下村塾」に通っており、
また、村塾で寮母や女幹事のように、塾生に慕われながら、
塾を切り盛りしていた文との間に、
恋愛感情が芽生えるシチュエーションは十分整っている。
だから、兄・松陰が文に玄瑞との縁談話を持ち掛ける前に、
文は眉目秀麗の玄瑞を意識していないわけがない。
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松陰は女子教育にも熱心だった。
女が書物を読んだりすると、生意気になると言うのが、
世間の常識だったが、子供は母親から大きな影響を受けるのだから、
娘時代から教養を持つべきだという。
そのため月に一度
「お因み会」と称し、
嫁いだ姉たちや親戚の女たちが母屋に集まり、
松陰の講義を受けた。
講義の後は、女たちはいつもの素食ではなく、
自分たちが用意したご馳走に舌鼓を打ち、
お喋りに花を咲かせた。
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そうした合間に15歳になっていた文に、松陰が聞いた。
「久坂をどう思う?」
「どう思うとは?」
「嫁ぐ相手としてだ。悪くはないだろう」
文は気持ちを見透かされたようで、気恥ずかしかったが、
戸惑いを正直に打ち明けた。
「私などお気に召しませんでしょう」
松陰は首を横に振った。
「おまえは、私が教えたとおりに育ったし、自慢の妹だ。
自信を持て、久坂なら似合いだ」
そして人を介して、久坂自身の気持ちを確かめた。
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ところが玄瑞に、文との縁談が持ち上がったとき、
玄瑞が
「文の器量が気に入らず」最初は断ったという説がある。
村塾の
横山幾太「松陰全集」
(明治24)に次のような記録が残る。
「この人先生の気持ちを悟って久坂にその妹を嫁がせようとした。
久坂はそのとき、まだ非常に若くて、
断るのに、その妹が醜いと言った。
そしたら中谷が、厳しく姿勢を正して、
『これは、君に似合わない言葉を聞くものだ、
大の男が容色で妻を選ぶものなのか』 と言った。
そこで久坂は言葉に窮して遂に承諾した」
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ここに出てくる中谷とは、松陰の友人でのちに玄瑞らとともに、
うた
長井雅楽の公武合体策に反対活動を起こす
中谷正亮のこと。
松陰の死後も、松下村塾の指導にあたった熱血漢で、
正亮は松陰先生の胸中を察し、
文と玄瑞との仲介を買って出たのであった。
このように、最初玄瑞が文との縁談を渋ったのは、
文の器量が気に入らなかったという話が、今日にも伝わる。
受け止めて畳んで丸くなる話 嶌 清五郎
敏三郎
が、しかし文の晩年の写真を見ても決して醜いとは思えない。
不思議なことに杉家の写真で、松陰の顔写真だけがないのだが、
一説に弟・
敏三郎が松陰に最も似ているといわれている。
その写真で見る限り、文と敏三郎とがまた似ている。
ということは、文と松陰が似ていることになり、
弟子としては、師匠に風貌のあまりにも似た女性を妻にするのは、
抵抗があったのかも知れない。
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話が横道にそれるが、文の縁談話は玄瑞が始めてではなかった。
その相手は松陰の弟子というより、
友人というべき存在の
桂小五郎で、
小五郎に
「文を嫁にやらないか」と勧めたのは
月性であった。
月性は松陰、
梅田雲浜とも親しく、
「人間到る処青山あり」という、
言葉でも知られる詩人としての才能も豊かな人物で、
「尊皇攘夷論」や「海防の急務」を説き、世に海防僧と呼ばれた。
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さて小五郎と文の縁談話である。
小五郎は、酒色を好み、女性に対する目は厳しく、
何度か結婚と離婚を繰り返し、浮名の尽きない人物として有名。
現に京都には深い愛情を交わす相手がいた。
歴史的にも知られるところの、祇園の芸伎・
幾松である。
加えて、小五郎は150石の中以上の家柄、
一方、松陰は57石の小禄、その上に幽閉中という差がある。
いろいろな要素を考えると、
文との縁の結果は最初からみえていた。
玄瑞が文を娶ると決まったのち、月性の松陰に宛てた手紙には
「小五郎は壮士に候えども、
読書の力と攘夷の志は久坂生遥かに勝るべく候」
と久坂を称えている。
たくさんの初めましての中に君 前中知栄[5回]
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