忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[553] [552] [551] [550] [549] [548] [547] [546] [545] [544] [543]
ひらかなの似合うおんなの物語り  美馬りゅうこ


    涙袖帖

明治の世になって、文は楫取素彦と再婚したが、
その際も彼女は前夫(玄瑞)からの大切な手紙の束を持参した。
書中には小田村伊之助(楫取)の名も親しげに登場する。
のちに楫取は、それを「三巻の巻物」に仕立てた。



「玄瑞の手紙」

15歳と玄瑞18歳という若い二人の結婚生活は、

いわゆる幸福とはかけ離れたものであった。
      ふたつき
婚礼から二月後の安政5年(1858)2月、

玄瑞は江戸遊学の途につく、

以後、蘭学から西洋学問までを学び、多忙を極めた。

これらは、玄瑞が広く世界を知るための糧となった。

松陰が唱えた「飛耳長目」の実践でもあった。

そして玄瑞25歳の死によって、終焉を迎えるまでの7年間、

東奔西走の日々を送る玄瑞は、萩にいることも少なかったので、

穏やかに二人で過ごした日々など、ごくわずかだった。

幸せをくらべはしない銀の匙  星出冬馬



とはいえ玄瑞も、文を顧みなかったわけではない。

二人は頻繁に文通しており、

そのうち玄瑞からの手紙のみ21通の文面が今に伝わっている。

読めば、恋愛の甘さはないものの、

温もりに満ちた玄瑞の思いやりが伝わってくる。

安政5年(1858)の冬、玄瑞が旅先から文に出した最初の手紙。

「一ふで参らせ候。

   寒さつよう候へども、いよいよおん障なふう、

   おん暮めでたくぞんじ参らせ候。

   まいまい文まゐる。此より何かいそがしく打絶申候。

   みなみなさま御無事くらし遊ばし、めで度御事に御座候。

   どうぞどうぞ、月に一度は六ヶ敷候へば、

   三月に一度は保福寺墓参りおん頼参らせ候。
 もうす   おろか   もっぱら
   申も疎御用心 専に候。 皆様ぇ宜おんつたえ頼参らせ候。

   何も後便に申候。 可しく。

   尚々きもの此のうち飯田の使まゐる。 慥に受取申候」

お文どの                  玄瑞

おとといをぽろり余白が消えました  森田律子

玄瑞は江戸・京都間を奔走し、

梁川静巌、梅田雲浜、頼三樹三郎などと往来し

公家の大原重徳卿に尊王攘夷の意見を上申したしているころであった。

「口語訳」

一筆お手紙差し上げます。
寒さが強いですが、益々差し支えなくお暮らしのことと存じます。
いつもいつもお手紙ありがとうございます。
こちらからは何かれ忙しくて、
お手紙を差し上げるのが切れてしまいました。
皆々様も御無事にお暮らしんなさり、めでたいことでございます。
どうかどうか月に一度が難しけらば、
三ヶ月に一度は保福寺への墓参りをお頼みいたします。
言うまでもございませんが、御用心なさることが大切です。
皆様へよろしくお伝えくださることをお頼みいたします。
いずれも次のお便りで申し上げます。     かしく。
なお、着物は先ごろ飯田の使いが持ってまいりました。
たしかに受け取りました。
                   
お文どの (在萩16歳)       玄瑞 (在江戸19歳)

僕が居るシンメトリーに遠い位置  藤井孝作


8月18日の政変に言及している手紙

[万延元年(1860)8月20日の手紙]  (口語訳)

「一筆お手紙差し上げます。

   だんだん寒さに向かいますが、まずは杉家をはじめ、

   そのほかの皆様も無事とのことで、およろこび申し上げます。

   さて宇野おば様のことびっくりいたしました。

   さぞさぞ、お母様(瀧)にもひととおりでなく

   お力を落とされたと存じます。

   いつもいつも保福寺にも参詣してくださり安心いたしました。
                             いくも
   過去帳については、生雲(玄瑞の母の実家)へ言ってよこし、

   亡くなった宇野おば様を)お迎えなさるのがよろしいです。

   いずれも次のお便りで申し上げます。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

 お文どの                 玄瑞 (在江戸)

(追伸)なお松陰先生の墓へも時々お参りしていますので、

    ご安心ください。

不義理して敷居の高いドアばかり  森 廣子

玄瑞はその後の手紙でも、

しばしば松陰亡きあとの杉家一家を気にかけ、

義兄・梅太郎の子供へ着物を贈るなど細やかな心配りを見せている。

『しら雲の たなびくくまは あしがきの ふりぬる里の 宿のあたりぞ』

など、故郷の杉家を懐かしむ歌もいくつか詠んだ。

早くに身寄りをなくした玄瑞は、

短い間でも一緒に暮らした杉家の人々に、

深い恩義と親愛の情を抱いていた。

そして言わずもがな、その思いが一番に注がれたのが、

妻の文であった。

的もまたこちらを向いて立っている  谷口 義



「万延元年9月24日の手紙」 (口語訳)

   「次第に寒くなりますが、

   杉家の皆々様差し障りなくお暮らしのようで喜んでいます。

   先ごろ生雲へお父上様と一緒にお訪ね下さったとのこと、

   生雲では喜んだことと存じます。

   母上様、姉様千代・寿子など、こぞって生雲を訪ねられたら、

   少しは母上様の気も晴れることと思います。

   品川弥二郎の便で、着物が届き、受け取りました。

   着物は当分間に合っております。

   今あるものを古い宝物のようになるまで着ますので、

   とくに着物は必要ございません。

   いずれも次のお便りで申し上げます。    かしく。

   なお杉家の皆様へもよろしくお伝えください。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

お文どのご無事で           玄瑞 (在江戸)

このままでいい このままがいい玉椿  田口和代



杉家全員が玄瑞のことを想い、

玄瑞も家族同様に杉家の人を思いやり、

細やかなこころ遣いが伝わってくる。

文が人づてに手縫いの着物を届ければ、

「古い宝物のようになるまで着れば、格別に着物は要りません」 

と、家計の遣り繰りが大変なことを知っている玄瑞は、

たびたび着物を工面してくれる文に対して、

思いやりをみせるのである。

消したらあかん とろ火のまんま豆煮える 山本昌乃

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開