揺るぎなく在りたいレ点返り点 美馬りゅうこ
山口御屋形門
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。
(敷地内には、今も当時の堀や土塁、石垣の一部、旧山口藩庁門が残り、
攘夷、討幕へと揺れた萩藩の動乱の幕末期を伝えている)
「山口から萩へ」
萩藩主・
毛利敬親は湯田温泉への日帰り湯治と称して,
幕末の政情に処するため、藩庁を萩から山口に移し、
今の県庁のところに政治堂を建てたのが、文久3年(1863)4月。
その時、この建物近くに
「露山堂」という茶室を設け、
茶事にこと寄せて身分に関係なく敬親は、この一室に有志を集めて、
討幕王政復古の大業について密議を凝らしたという。
実際の藩主の目指す政治は、ここで行なわれていたのである。
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露山堂
その翌年の元治元年10月、藩政の中枢となる
山口御屋形が竣工する。
山口御屋形
(山口城)は、天守閣がそびえる前時代的な城ではなく、
北と西の2つの山を天然の要害とし、
堀や土塁をめぐらし、その中に築かれた一部は二階建てで、
大砲を据え敵に備えるため、
八角形に近い敷地の西洋式城郭として築かれた。
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山口城
しかし、萩藩は
「8月18日の政変」で京都から追放され、
さらに翌元治元年には
「禁門の変」で敗れ、
幕府から
「征討令」が下り、そうした窮地の中で、
御屋形は10月に竣工したが、翌11月、
幕府は征討中止の条件のひとつとして、
竣工したばかりの御屋形の破却を命じてきた。
こうして藩主・敬親及び元徳父子、正室の都美姫・銀姫、
奥の女中たち、家臣らは山口から萩城へ退去することとなった。
(御屋形は慶応2年5月、最築される)
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「城替え」
奥の一日は、
「総触れ」と呼ばれる朝の挨拶から始まる。
美和(文)は廊下の末席に座した。
都美姫と銀姫が互いにぴりぴり牽制し合っている。
奥の女たちは、皆、その様子にハラハラしている。
藩主・
敬親も元徳も、そんな2人に少々手を焼いている。
美和の席から、おもしろくも悲しくもすべてが見通せた。
やがて敬親の朝の一言が始まった。
「互いによきところを敬い、力を合わせ奥を盛りたてよ。
長州はこれより、いささか険しい道を辿ることになるゆえ」
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やがて
美和は奥総取締り役・
園山から呼び出され、
山口から萩への
「城替え」の話を聞かされる。
200名もの女たちが、住まいを替えることになるのだ。
この数は萩の部屋には収まりきれない。
ゆえに女中たちの人員を削減をするというのである。
「暇乞いさせる女中たちの名簿をつくるように」
と園山は美和にその任を与えた。
美和は思うところがあってこの仕事を引き受けることにした。
まずは右筆の女中から、奥のすべての者の名前と
お役目が記されている帳面をもらう。
美和は勢い込んだが女中の誰もが、協力を拒んだ。
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簡単な仕事ではない。
そこで奥に務めて50年になるお蔵番の
国島に協力を求めた。
しかし国島は、
「奥で生きた者の歳月は、そこに暮らしたものにしか分からぬ
奥で生きた誇りは誰にも誰にも手放せぬ」
と一蹴されるが、姉・寿の励ましもあり美和は諦めなかった。
「私は、これまでのすべてを捨て、ここに参ったのです。
どんなに非情と責められようと、臆せず誇りを見極めて、
お役目を果たしとうございます」
この強い美和の覚悟は、国島を動かした。
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美和は次の策として
都美姫と
銀姫に、
納戸にある2人の道具を、出来る限り売りたいと申し出る。
女中たちが唖然とする中で、美和は熱弁をふるう。
「病の者、老いた者、萩へ移動するのが難儀な者たちに、
すべて与え、相応の屋敷と人を 配して、山口に残す。
手厚く遇された者たちは、生涯毛利家に尽くすだろう、
毎日手入れをされるだけで使われていなかった品々も、
日の下でまた大勢の者の目を楽しませるだろう。
真心を尽くし、誠を貫けば必ずや人の心は動きます。
お家の繁栄は至誠の先にあると、そう信じるものにございます」
滔々と述べた美和の熱弁に対し、意外にも銀姫が
積極的に女中削減と道具売却の件を許すと口を開いた。
そして都美姫もこれに追随するという。
こうして美和は役目を消化していく。
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萩の城
やがて奥御殿の者たちが
「萩城」に移ってきた。
そこには若く美しい女たちが、にこやかに控えている。
銀姫は瞠目して絶句した。
美和も同じだ。
女中に暇乞いをさせたのは、
なかなか世継ぎの出来ない銀姫の代わりとなる
側室を城に招きいれるためだったのだ。
美和は都美姫に理由を尋ねた。
「我らが何のために萩へ参ったと思う。
この長州の危機を生き延びるためじゃ。
表では、毛利家を残すために、
藩主はじめ多くの家臣が身を削り働いている。
われらも又同じ、お世継ぎを産み育て、毛利家を守らねばならぬ。
都美姫はきっぱりと美和に言い放った。
彼女が言うなら蜜柑は四角です 奥山晴生[5回]
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