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川柳的逍遥 人の世の一家言
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じっとしていたら名詞になっちゃった 竹内ゆみこ


     周布の偉勲を永久に伝える碑

周布政之助は、豪胆なひとであった。

土佐の山内容堂に暴言を吐いたエピソードも、

酒の上に乗せた本音であったと、長州の藩主も、

そして、私も理解する。

現にそのような切腹ものの罪を犯しながら、

謹慎処分だけで済んでいるのだから。

そんな豪胆な周布も幕末から明治にかけて、

多くの歴史上に名前を残した人の中では、名前を知る人は少ない。

彼は何を仕出かすかわからない長州の尊攘の志士たちの

活動を陰で支え、椋梨藤太以下、頭の固い保守派の壁になった。

明治維新という新しい夜明けを見ることが出来たのは、

彼がいたればこそなのかも知れない。

彼の残した偉業の一つが、幕府の定めた海外渡航の禁を犯してでも、

藩主・毛利敬親を説得し、長州の5傑を英国留学させたことである。

白紙からボート一隻あぶり出す  岩田多佳子


  長州五傑


上段左から、遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔、
下段左から、井上聞多、山尾庸三

「五傑の英国留学」

文久3年(1863)5月10日、馬関海峡を通過する外国船に対し、

単独で砲撃を開始した長州藩。

その一方で、5人の若者が英国への留学へと旅立つことになった。

その理由は、強大な国力を持っていると考えられていた清国でさえ、

アヘン戦争以来、西欧列強に蹂躙されていたことが挙げられる。

同藩は攘夷を成功させるには、

まず敵である西欧の文明技術を学ばねばならないと考え、

ヨーロッパへの留学生派遣を決めたのだ。

虹の見つめる彼方うみ洋洋  徳山泰子


 チェルスウィック号

しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、

「密航」という形を取ることになる。

これは大きな危険を伴う役目で、藩からその内命を受けたのは、
ようぞう
山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助、そしてわずか半年前には

英国公使館の焼き討ち事件に加わっていた

伊藤俊輔、井上聞多の5名であった。

5人は藩が馬関海峡で外国船への砲撃を開始した2日後の

5月12日、ガワー総領事の斡旋により、

ジャーディ・マセソン商会所有のチェルスウィック号に乗り

横浜を出航、まずは上海を目指した。

山桃とグミを搾って脱獄す  井上一筒

そこで彼らが目にしたのは、

アジア最大の西欧文明中心地として栄える町と、

100隻を越える外国軍艦や蒸気船が停泊している

港の光景であった。

「この圧倒的な国力の差は何だ。

   攘夷などという無謀なことを実行すると、日本は滅びてしまう」

5人の胸の内には、そんな思いが去来したであろう。

その後、すぐさま開国へと心が動いたことでも予測できる。

上海から先は2隻の船に分乗し、11月4日にロンドンに到着した。

見わたせば西洋タンポポばかりなり  福光二郎

一行を迎え入れたのは、ロンドン大学の一校で名門の(U・C・L)

『ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン』であった。

入学の手引きは、

アレクサンダー・ウイリアムソン教授が行なってくれた。

そこで彼らはウイリアムソン教授の分析化学の講義だけではなく、

さまざまな学問に触れたことで、

「攘夷の無意味さ」をさらに実感する。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

翌文久4年4月、ロンドン滞在中の5人のもとに、

「過激な攘夷行動を改めない長州藩に対して、

   列強4カ国が共同で攻撃を行なう準備が進められている」

という情報がもたらされた。

驚いた5人は相談の結果、伊藤と井上馨の2人が緊急帰国、

藩の上役を説得し、

列強との戦いが無謀であることを説くことにした。

とぼとぼを見守る細いほそい月  山本早苗


水戸の浪士に襲われた東禅寺事件
右はオルコット。


伊藤と井上は元治元年6月初旬、横浜に到着する。

駐日英国公使・ラザフォード・オールコックに面会し、

「自分たちが藩論を変えるために帰国するので戦闘を待って欲しい」

旨を伝えた。

公使はフランス、アメリカ、オランダの三ヶ国にも了承を取り付け、

書簡を手渡した。

ただし書簡への返答は、ふたりが帰国してから12日後まで、

という条件が付けられたのであった。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

攘夷の急先鋒とされていた長州藩だが、
実際には将来的に開国することを視野に入れていた。
5人は新しい時代に対応できる人材として選ばれ、
マセソン商会所有の船で密航した。



伊藤博文(俊輔)

渡英から半年後には帰国することになるが、その後の活躍は目覚しい。
初代内閣総理大臣。

井上馨(聞多)
伊藤と同じく半年で帰国することになる。
しかし初代外務大臣を務めたことから「外交の父」と呼ばれる。

井上勝(野村弥吉)
山尾庸三とともに5年間留学。鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれる。
また小岩井農場も設立した。

山尾庸三
帰国後には工部少輔、工部卿などで工学関連の重職を任された。
さらに法制局の初代長官も務めている。

後日談書くとかすれるボールペン  合田瑠美子

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