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川柳的逍遥 人の世の一家言
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焼け石にまけたくないという水だ  立蔵信子 


         蛤 御 門

蛤御門は、本来の名前を「新在家御門」という。
天明の大火の際、滅多に開かないこの門が火に焙られ開いたことから、
つけられた。この門の周辺が最も激戦だったことから、
「蛤御門の変」とも呼ばれる。

「玄瑞辞世の句」              
           しこわざ
「ちはやぶる人の醜業かかるかと 思えば我も髪逆立ちぬ」

玄瑞最期のとき入江は「乱れた髪を直せ」と笑顔で鏡を渡したという。

「禁門の変」(蛤御門の変)

(拡大してご覧下さい)
「蛤御門合戦図六尺六曲一隻屏風」 (会津若松市蔵)

完全に政局の中心から追いやられてしまった尊攘派の志士たちは、

肥後脱藩の宮部鼎蔵らを中心に、起死回生の秘策を計画した。

それは「風の強い日に京の町に火を放ち、

その混乱に乗じて公武合体派を暗殺。

さらに孝明天皇を長州へとお連れする」 というものだった。

ところがこの計画は、

洛中の治安維持を担当していた新撰組のしるところとなり、

元治元年(1864)6月5日、尊攘派志士の古高俊太郎を捕縛。

拷問にかけた結果、企みの全貌が明らかになった。

溝板を踏んでひりひりと迂闊  酒井かがり

「8月18日の政変」以降、長州藩内には、

「兵を京へ繰り出し、一気に失地回復を図る」

という強硬論が叫ばれるようになっていた。

そこへ、この池田屋の悲報がもたらされた。

何の詮議もなく、多くの同志を殺されたことで、

幕府への怒りは沸点に達する。

来島又兵衛などは、思想的なことよりも、

毛利家が受けた恥辱を晴らすため、強硬に出兵を促がした。

シャープさを競えば狂になっていく  古田祐子        


    天王山

こうなると桂小五郎の冷静な見解や、

久坂玄瑞の藩兵の上洛は反対という意見は、押しやられる。

おまけに玄瑞は、指揮官のひとりに据えられてしまう。

こうして京都制圧論が現実のものとなる。

元治元年6月15日、来島又兵衛は遊撃隊300人を率いて先発し、

16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一、

玄瑞が続いて出発した。

後からは、世子・定弘が本隊を率いて京へ上ることになっている。

21日、玄瑞は大坂に到着、300を率いて淀川を遡り、

京都の入口山崎・天王山を本営とし他の隊は伏見・嵯峨などに布陣。

下旬には長州藩兵約2000が、

京を南と西から攻撃できる態勢を整えた。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒           

しかし玄瑞は戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州藩の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に「嘆願書」を差し出した。

しかし、孝明天皇は長州が武力を御所へ向けたことに不快感を示し、

堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門に、それぞれ

越前、会津、桑名、薩摩藩を警護に配置させた。

孝明天皇の心はすでに戦闘への構えであった。

一言の誤解会話が時化になる  上田 仁           


  来島又兵衛

7月18日、玄瑞らは家老・益田右衛門介の陣・男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、

玄瑞は 「一旦兵庫まで兵を退いて世子の到着を待ち、

             大軍を擁して京都に入るべきである」 宥める。

この時点での玄瑞の目的は、「あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を退ける日本をつくろう」

との決意を抱いていた。

しかし、来島は容れず「臆病者!」と罵倒する。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

痙攣をする左目のキリギリス  くんじろう


 幕末の京都御所

同日夜、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から進撃を開始。

来島、国司らの部隊は御所「中立売御門」「蛤御門」に向かった。

玄瑞真木の500は、天王山から進発し、

桂川を渡りきって「堺町御門」に達し、門から突入した。

正面が見知った鷹司邸だ。
               すけひろ
参内しようとしていた関白・鷹司輔煕を見るや否や、

玄瑞は嘆願を口にした。

「天子様にこの書状をっ! お願いいたします!」

「ならん! 何故兵を挙げた? なぜ御所を戦場にした!? 

   巻き添えはごめんじゃ!!」

「何とぞ長州をお救いくださいっ!」

去ろうとする鷹司にすがりつき、玄瑞は必死に哀願する。

その玄瑞の目から涙が零れ落ちた。

「そなたらは、天子様に刃を向けたのだぞっ!

   もはや御所にはそなたらの声を聞く者など、おらん」

鷹司は怒りをこめて玄瑞を振り切って去っていく。

切り口の朱色が哀しすぎますね  合田瑠美子       

ほどなくして、鷹司邸では死闘が展開された。

薩摩、会津、桑名などの兵に囲まれて、邸内に大砲が撃ち込まれた。

銃弾が飛び交い、屋敷に火が回った。

玄瑞は、右足に火のような痛みを覚えた。

流れ弾が玄瑞の脛の部分を貫いていた。

足を引きずりながら玄関に出た。

村塾の同輩・河北義次郎に会った玄瑞は、

「俺はもう動けない。お前は囲みを突破して、

   途中まで来ているはずの世子に注進せよ」

と哀願した。

仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代           

この戦いは最初から長州に勝ち目はなかった。

御所を守る会津、薩摩などの藩兵は数の上で勝っていただけでなく、

長州側には、「御所に向かって発砲する」 という

後ろめたさが付いて回ったからだ。

おまけにきちんと作戦計画を立てていたわけではなかったので、

戦いはわずか一日で決着が付いてしまう。

久坂は、「すべて俺が負うべき責め、お殿様にお詫びを、

    長州の…萩の皆にも俺は腹を切る」

「自分も」と言う入江の言葉を遮って玄瑞は、

「ここを抜け出して元徳の入京を止め、高杉を支えてくれ」

と後事を託したのち、

玄瑞は、胴巻きに入っていた軍資金を取り出して三宝に載せ、

鷹司の用人に、「些少なる、邸内を擾乱させた罪を謝したい」

と語りかけたという。 

この後、玄瑞と







寺島忠三郎
は鷹司邸内で刺し違え、自決。

玄瑞、25歳、忠三郎、22歳であった。

田舎芝居の赤城の山に月がない  奥山晴生        


   どんど焼き

敗れた長州勢は長州屋敷に火を放って逃走。
戦闘そのものは一日で終わったが市街はその後大火に見舞われた。

「結末」

来島又兵衛は、馬上で戦闘を指揮している最中に狙撃され戦死。

その他、真木和泉ら17人が敗走途中、山崎の天王山で自刃。

失地回復のための乾坤一擲の勝負が完全敗北に帰した結果、

長州藩は朝敵の汚名を着せられることになった。

尚、戦闘は一日で終わったものの、京都の町は、

21日まで火災に見舞われ、多くが灰燼に帰した。

さらに、今回の責めを負って久坂家は断絶。

よって養子縁組は取り消し、久米次郎は小田村に帰される。

藩主・毛利敬親と世継ぎ元徳の父子は、「朝敵」として処罰される。

鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、

輔煕は参朝を停止され謹慎処分となる。

雲間から一部始終を見てた月  藤井孝作

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