竹に節私に意地があるように 八田灯子
下関戦争の後、イギリスのキング提督との会談に臨んだ毛利敬親(左)
と元徳(右)父子。
さらにこの後、毛利家父子は征長軍との講和条件に従い萩城外で
蟄居することになる。
「文の女中務め」
元治元年
(1864)久坂玄瑞自刃の悲報を、
文は萩の実家で静かに受けとった。
父・
百合之助から常々
「武士の妻たる心得」を説かれていたからか、
格別取り乱すことはなかったが、心中の悲嘆は推し量るべくもない。
離れ離れになってからも、ずっと、2人は心を通わせてきた。
わずか7年で愛する夫を失った文は、
その後しばらく、臥せって何も手につかなかったという。
悲しみの隙間は狙わないように 安土理恵
しかしその翌年の慶応元年、転機が訪れる。
ようよう回復した文は、
毛利定広の正室・
安子の女中に登用される。
定広は、時の藩主・
敬親の後継ぎである。
その夫人たる安子に仕えたということは、
文はそれだけ高い教養を備えた人物だと、評価されてのことである。
つまび
文が具体的にどのような働きをしていたのかは詳らかでないが、
安子の長男・
興丸(のちの毛利元昭)が生まれると、守役を務めた。
その頃に名を
"美和子"に改めたともいう。
箸置きも枕もあすを言いたがる 奥山晴生
毛利安子
元治2年(1865)2月、安子は第1子の長男・元昭を出産。
結婚8年目で生まれた男子のため、元昭の入浴まで自ら行い、
愛育した。
この時、文23歳、
まさに
松陰が求めていた通りの才女に成長していたのである。
実は、文の
「女中づとめ」は長らく謎に包まれていた。
「毛利安子のもとで働いていたらしい」
という漠たる浮説は伝わっていたものの、
資料に乏しく確証はなかった。
しかし、近年
『〔宝印御右筆間〕御日記』(山口県文書館所蔵)の中に、
決定的な記述が見つかった。
同じく安子付きだった女中によって、
文久2年
(1862)~大正14年
(1925)まで綴られたこの日記の、
慶応元年
(1865)9月25日の項には、次のように記されている。
「一、御方へ今日より召し出され候御次女中 久坂美和」
本心を少し隠して丸くなる 前田孝亮
「御方」とは一般に高貴な女性を指し、ここでは毛利安子のこと。
「御次」とは貴人の居室の次の間、すなわち奥のことをいう。
それにしても、
松陰や玄瑞の縁者である文が、
毛利家での仕事を任されたというのは、一見不可解かもしれない。
松陰は安政の大獄で刑された
「危険人物」であり、
玄瑞は禁門の変を主導し、結果的に、
長州が
「朝敵」と目される要因をつくった。
水仙が咲いた何とかなるだろう 竹井紫乙
だが禁門の変から1年の間に、藩の情勢はだいぶ変化していた。
高杉晋作の「功山寺決起」によって、
藩政から幕府恭順派が駆逐され、
さらに
桂小五郎が政権を担ったことで、長州は再び、
松陰や久坂が主張していたような反幕路線に返っていったのである。
こうした時流のなか、文は明治初期まで山口の毛利家に仕えた後、
一旦、実家に戻った。
息子・
久米次郎のことが気がかりだったのかもしれない。
人偏をつけて人間へと戻る 竹内ゆみこ
梅太郎
文は玄瑞との間に子はなかったため、
姉夫婦
(楫取素彦・寿)の子久米次郎を養子とし、慈しんでいた。
しかし、
秀次郎(玄瑞と辰路の間に出来た子)の存在が発覚したため、
親族が協議し、久米次郎を楫取家に戻して、
秀次郎を久坂家の籍にいれることになる。
文は亡父のへの複雑な思いと、
息子を奪われる悲しみを奪われることになった。
それでも文は実家杉家で、兄・
梅太郎の厄介になりつつ、
かいがいしく老母・
瀧の面倒を見ている。
満月の裏は涙の海だろう 杉浦多津子 [5回]
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