重力が消えた凸面鏡の街 くんじろう
俗論派 正義派
幕末、長州藩内は、改革派と保守派とに分かれており、
藩主・毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。
のちに改革派は「正義派」と称するようになり、
幕府に恭順しようとする保守派を「俗論派」と呼んで区別した。
「椋梨藤太 VS 周布政之助」
毛利敬親は、教育に関しては、非常に熱心な藩主であった。
22歳から26歳までの4年間、11歳の
寅次郎(松陰)を城に招き、
「孟子」や「孫子」の講義を受けたこともある。
このとき、寅次郎の授業に対し、次のようなことを述べている。
「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、
寅次郎の話を聞いていると、自然に膝を乗り出すようになる」
いわば藩主は、
玄瑞や晋作と同じ村塾の門下生であったことになる。
ただ藩政に関しては、何にでも
「そうせい」と答えて、
すべて家臣にまるなげする藩主と見られていた。
七転び八起き普通にくり返す 富山やよい
敬親の下、長州藩は幕末、
周布政之助や
高杉晋作ら
「正義派」と
これに抵抗する
椋梨藤太らの保守系・
「俗論派」が対立していた。
敬親も、もちろん松陰門下として、常に松陰門下生を見守ってきた。
だから、心情的には正義党を支持しながら、
両者の対立に揺れることなく中立を標榜した。
ただ、
「そうせい君」と揶揄されながら、
生涯に二度だけ、
「そうせい」と言わなかったことがある。
せまいせまい箱から出たいかくし事 柴本ばっは
その一度が、第一次長州征伐で藩内が
「恭順派と抗戦派」に分かれ、
意見がまとまらなかった時。
「我が藩は幕府に恭順する」と藩主自ら宣言をしている。
毛利には幕府に対し恨みがある、その恨みを勘ぐらせないためにも、
13代へと続く歴代の毛利の藩主には、幕府に従順である姿勢を
見せるための、裏の顔が必要であった。
敬親はもともと革新論者で口癖の
「そうせい そうせい」は
本当の本心を読ませないパフォーマンスなのである。
一般的見解と違い、藩主・敬親は実は名君だった。
(古い頭の持ち主・椋梨藤太と激情型の周布政之助の対立に、
藩主・敬親の基本的な信条・本心を垣間見ることができる)
とりあえず目と鼻を描いてきた 蟹口和枝
「椋梨藤太」
椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、
40代半ばを過ぎて藩政を担う要職に抜擢された。
保守派であった椋梨は、尊攘派の
周布政之助と藩政の主導権を争い、
周布が支援する
吉田松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。
しかし、懐柔に成功したと思っていた
小田村伊之助が、
周布歩調を合わせて
椋梨のまとめた藩論への異を藩主・毛利敬親に唱えたことから、
椋梨は要職を追われ、隠居を命じられる。
薬から見ればきたない腹である 小池正博
しかし
「8月18日の政変」続く「禁門の変」で長州藩が
幕府に圧せられると、第一征長後では
幕府への恭順を訴え、
藩主の
「恭順宣言」を得て、椋梨は藩政に復帰、
周布を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ
「解散令」を出し、
益田親施・福原元僴・国司親相の三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。
そして政敵である周布を自害へと追い込み、
尊攘派の面々を大量に処刑していった。
人材を育成する
明倫館の教えを踏みにじる椋梨に
藩主・敬親は顔を曇らせた。
どーだどーだと限りなく黒い唇 酒井かがり
この粛清に危機感を募らせた
高杉晋作・伊藤俊輔らは、
元治元年
(1864)12月、功山寺で決起、
諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、
慶応元年
(1865)1月の
「絵堂の戦い」によって形勢は逆転、
潜伏していた
桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、
武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一する。
高杉晋作がクーデターを成功させると、
敬親は政権交代を容認し、
「薩長同盟」から
「討幕」へ邁進する。
断面から昨日の風が吹いている みつ木もも子
これによって椋梨は完全失脚、
同年2月に岩国藩主・
吉川経健を頼って逃亡した。
椋梨は逃亡したものの、
海が荒れたため行き先を変更さざるを得なくなり
最終的には津和野藩領内で捕らえられた。
そして5月、息子の
中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑。
討幕派側の取調べの際に、
「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」
と懇願しており、斬首の形で死んだのは椋梨のみであった。
享年・61歳。
ただし、実際には同時期に
中川宇右衛門も切腹させられているほか、
小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。
おひとりさま一枚ですよ冥土行き 岡田幸子
「周布政之助」
周布政之助は長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学び、
祐筆・
椋梨藤太の添役として抜擢され若くして政務役筆頭となる。
政之助は天保の藩政改革を行った家老の
村田清風の影響を
受けており、この抜擢は、村田の政敵である
坪井九右衛門派の
椋梨との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。
酒好きが高じてたびたび舌禍による失敗を起こしたが、
その優秀さゆえに要職を担い続けた。
金の卵になりなさい勉強なさい 山口ろっぱ
その後、保守派の椋梨や開国派の
長井雅楽と路線を異にし、
藩の中枢に居ながら在野の
吉田松陰の声に耳を傾けた。
また外では、松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、
松陰没後は、彼の門下生を登用したり、
塾生らを江戸や京都に送ったりするなど、
松下村塾の志士たちの活動を支援した。
こうして幕府の政治に懐疑的であった周布に対し、
幕府恭順派の間に派閥争いが表面化していく。
安政の大獄後、椋梨との主導権を争いで周布は一時、
藩政の中枢から外される。
だって太陽の黒点なんだから 森田律子
しかし政権を握った坪井派が、京都と長州の交易を推進したことが,
疑心暗鬼をうみ、サボタージュが発生して失敗したことで、
周布は再び藩政に復帰。
文久2年
(1862)当時、藩論の主流となった長井雅楽の
「航海遠略策」に経済政策の責任者として同意したが、
久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らと歩調を合わせ、
藩論統一のために攘夷を唱えた。
しかし、松下村塾の塾生の思想が過激さを増すにつれ、
その対処に追われるようになり、
禁門の変に際しても事態の収拾に奔走。
幕府による長州への出兵や、
列強4国の連合艦隊による長州砲撃を背景に
幕府恭順派が台頭すると、藩での実権を失っていく。
不器用な男手風を真に受ける 上田 仁
そして元治元年9月26日、
革新派の暴走を止められなかった責任を感じて、
周布は山口矢原の庄屋・
吉富藤兵衛邸にて切腹した。
そのわずか3ヶ月後に、高杉晋作が功山寺で挙兵し、
大田絵堂の戦いを経て、長州の政権は再び革新派が握る。
藩論は周布が望んだ方向にすすんでいくことになるにも関わらず、
そこには周布の姿はなかった。
遺書には、
「道の近くに埋めてくれ。幕府が攻めてきたら、
地下からにらんで止めてやる」
と書いてあったという。
享年42歳、この若さが惜しまれる。
消しゴムでそっとあなたを泣きながら 北原照子[5回]
PR