書きとめて発酵させているノート 美馬りゅうこ
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江戸流行菓子話(船橋屋織江著ー天保12年(1841)刊)
深川佐賀町の菓子の名店・船橋屋は文化初めの創業で、
練羊羹を売り物としていた。本書は その船橋屋の主人が、
店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと
分量付きで記した。
『料理通』の菓子編といった趣があり、
同じく
「江戸流行」 の角書きを持つ。
紛れもなく、初代の、いわゆる初心者用のレシピ本なのである。
間違いなく、本好きの杉家の人々、特に
瀧や
文はこれを購入し、
読み漁ったに違いない。
後年、この菓子作りが
高杉晋作の命を救うことにもなる。
切り取った空一枚の使いみち 山本早苗
内容は、次のようなものである。
(1915年刊「雑藝業書」第2・活字版より)
『この本は、お菓子好きの素人の方のために書いたもの。
商売でなく趣味でお菓子を作ってみたい方は、
この本に書かれている製法通りに作ってみましょう。
まずまずのお菓子が出来上がるはずです』
ページを繰っていくと最後に、
『利潤を離れて製する時は、珍しく至りて面白き品も出来るなり。
宜しく工夫在して製して見給ふべし。
また,商売でなく趣味としてつくれば、
かえって面白い珍菓が出来るでしょう。
さあ皆さん、それぞれ工夫してお菓子を作ってみましょう』
とある。
作り方は、ほぼ現在と同じ。
それにしても、売り物の秘伝を教えるとは、
菓子商・
船橋屋織江氏は度量の広い人である。
黄金糖の角で磨いている言葉 河村啓子
「羊羹の歴史-①」
「羊羹」はもともと中国から伝来したもので、
『庭訓往来』によると、
日本では室町時代の初期茶道の湯の菓子
「点心」から出た間食だった。
あつもの
間食で献肉を使って羹を出したのが、羊羹のような蒸しものであり、
羊の肝臓に似ていたことから
「羊肝」といわれた。
が、菓子では字体が好ましくなく、字を改めて今の
「羊羹」になった。
「点心」=定食の間の小食を意味する。
六月の右手は右のポケットに 嶋沢喜八郎
尾張・徳川家の御用達だった羊羹屋
ともかく初期の羊羹は、
小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る
「蒸し羊羹」であった。
ウイロウ
蒸し羊羹からは、
「芋羊羹」や
「外郎」が派生している。
また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、
一般的な羊羹の味付けには、甘葛などが用いられることが多く、
砂糖を用いた羊羹は特に
「砂糖羊羹」と称していた。
17世紀以後、琉球王国や奄美群島などで、
黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって、
日本本土に持ち込まれると、
砂糖が用いられるのが一般的になり、
甘葛を用いる製法は廃れていき、
後に、大河ドラマで活躍する
「煉羊羹」が考案された。
飛んだ日の空気を知っている翼 菱木 誠
「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは、慶長4年
(1599)
てんぐさ
鶴屋
(後の駿河屋)の五代目、
善右衛門が天草・粗糖・小豆あんを
用いて炊き上げる
「煉羊羹」を開発、その後も改良を重ね
万治元年
(1658)に、完成品として市販されるに至る。
しかし、寒天を使用した練羊羹が一般に広く普及したのは、
江戸時代の中期からであって、
それまでは依然として「
蒸し羊羹」が主流を占めていた。
その後、十八 世紀後半になり寒天で固める練羊羹が、
口当たり日持ちのよさで人気を集め、各地に広まった。
白というその一点の毅然かな 徳山泰子
鶴屋八幡
「羊羹の歴史-②」
「練羊羹」は餡に寒天と砂糖を加えて、練りながら煮つめたもので、
材料の寒天の創製は万治年間
(1658-61)といわれている。
きゆうしょうらん
『嬉遊笑覧』(1830)には練羊羹は寛政(
1789-)の頃からとあり、
ほくえつせっぷ
『北越雪譜』(1842)にも、練羊羹は寛政の初めに江戸で作られて、
諸国に広まり、今は江戸から遠い小千谷
(新潟県中越)にもあると記す。
江戸の練羊羹は、寛政の初め日本橋の
喜太郎という者が作りはじめ、
文化年間
(1810ー)には、
上菓子屋の
鈴木越後や
金沢丹後でも練羊羹を売り出し、
文政年間
(1818-)には、「
江戸流行菓子話」の著者でもある、
深川佐賀町の
船橋屋織江の練羊羹が評判になる。
よいニュースそっと耳うちいい笑顔 北山惠一
この船橋屋の主人が著した
「近世菓子製法書」には、
練羊羹の作り方以外に、
羊羹がおいしく頂ける大きさまで、親切に書いてある。
さお となふ
『練物類一棹と唱るは、長さ六寸(約20cm)に巾一寸(3.3cm)、
一船にて十二棹に切るなり。
つうげん
製して流し入る箱を、菓子屋の通言に船という。
今は練羊羹を製せざる所もなく、常の羊羹はあれども無きが如く、
練を好み玉ふ様にはなりたり』
雨が降るいちご白書の五ページ目 清水すみれ[4回]
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