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川柳的逍遥 人の世の一家言
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八重で濃いめで道端に咲くつもり  古田祐子

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京都御所御門見取図

「雑学ー禁門の変」

古来、天皇の住まいの御所は侵してはいけないという意味の

「禁」を用いて、「禁中」あるいは「禁裏」と呼ばれた。

御所の門も同時に「禁門」と呼ばれた。

京都御所は築地に囲まれた地域で、建礼門などの6つの門がある。

その外側に、9つの門を設けた塀に囲まれた「京都御苑」がある。

京と御苑の地域は、もと宮家や公家の屋敷があったところで、

明治維新で皇居が東京に移ったとき、

公家なども移転したため空き地になり、公園として整備された。

追伸に渋い助言が添えてある  原 洋志

「禁門の変」とは、

戦いがその門をめぐって行なわれたことによる通称である。

久坂玄瑞率いる部隊は、越前藩の守る「堺町御門」から攻め入った。

しかし門の防御は固く、玄瑞や寺島忠三郎は鷹司邸に入って自刃。

「下立売門」では、長州藩の児玉隊と桑名藩が戦った。
                             くにし
築前藩が警護していた「中立売御門」は、国司・福原隊が破った。

「乾御門」を攻撃した長州藩は、薩摩藩に敗れた。

三途とは気付かず船賃を払う  杉山ひさゆき

禁門の変の主舞台になった「蛤御門」は、

当初、長州藩の来島隊と会津・桑名藩とが激突した。

その後、各門で勝利した児玉隊と国司隊、

薩摩藩が、それぞれ蛤御門の援軍に駆けつけ、

敗北した長州藩は「寺町御門」から退却した。

本当のさよならだった帰り道  八田灯子


瓦版ー禁門の変よる京都大火災

「その後をかいつまむ」

結局、御所を舞台にした「禁門の変」に敗れた長州藩は、

「朝敵」の汚名を着せられてしまう。

さらに幕府軍による征討軍が編成され、

長州領内への進撃準備を整えていた。(第一次長州征伐)

さらに同時期に英米仏蘭の「四国連合艦隊」による、

下関への攻撃を受けるという、絶体絶命の危機に陥ってしまう。

水をクダサイと地下から声がする  橋倉久美子

もしも幕府の力が磐石であったなら、

長州藩はこの前後で跡形もなく消えていたであろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

それだけ幕府も弱体化していたのである。

紫を使い尽くしたカメレオン  赤松螢子

生き残ることの出来た長州藩は一時的に幕府恭順派が実権を握るが、

すぐに高杉晋作のクーデターにより、藩論を「倒幕」へ統一。

ただ以前のように闇雲に尊皇攘夷を進めるのではなく、

密かに軍備を整えていった。

それを可能にしたのが、「薩長同盟」締結であった。

薩摩が長州の代わりに武器を調達し、

長州の軍備は近代化することができた。

いわゆる討幕への準備が整ったのである。

これがその足踏み式の回る寿司  井上一筒

だが将軍・徳川慶喜「大政奉還」を行い、実験を朝廷に返上し、

倒幕派の大義名分を失わせる策に出た。

しかしこれを見抜いた岩倉具視らが、「王政復古」の大号令を行う。

この段階で薩長らの目的は、

「倒幕」から「討幕」へと変わっていくのである。

有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一

「瓦版ー記事」

元治元年子七月十九日辰刻頃 河原町二条より出火仕少し鎮方相成候所
已刻より堺町丸太町辺より又候 出火仕候折節北東風つよく相成  
丸太町通を寺町へ焼出革堂 残る夷川を河原町にて火留る西ハ  
烏丸通を上長者町又下立売は 新町椹木町西洞院丸太町 
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ 西堀川通別条なし

並本国寺又西本願寺御堂別条なし 東本願寺ハミなミな焼失不動堂にて
火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や町等ハことことく焼失併
祇園御旅道場ハ別条な
く東辺も同断依て東ハ河原町上ハ 
下立売下ハ九条西ハ堀川まて焼失仕候 
凡家数 二万五千計 かまと数  
四万七千計 土蔵落 千五百ケ所  
神社仏閣  五百ケ所

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

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