不条理を問えば天から降る霰 森 廣子
フランシスコ・ザビエル
「官兵衛とキリスト教」
日本にポルトガルから
「キリスト教」がもたらされたのは、
天文18年
(1549)のことである。
イエズス会の宣教師である
フランシスコ・ザビエルは、
大友宗麟の庇護を受けて、キリスト教の布教に努めた。
その甲斐があってキリスト教は九州を端緒として日本各地に広まった。
ザビエル自身は、布教のための道を開いた段階で日本を去ったが、
そのあと来日したパードレ
(司祭)、すなわちバテレン
(伴天連)、
イルマン
(修道士)たちによって、
キリスト教は着実に根を下ろしていった。
乾いた梅雨にやっとお湿り 武智三成
こうして天正10年には、都で2万5千人、豊後で1万人、
九州で11万5千人、合計で15万人のキリスト教徒が生まれた。
そして、キリスト教の信仰は戦国大名の間にも広がりをみせていく。
そうした中、
イエズス会・宣教師の
ルイス・フロイスの
「日本史」には、
官兵衛のことが記されている。
根を張った幹が世界を左右する 神野節子
「受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。
彼は優れた才能の持ち主であり、
それがために万人の尊敬を集めていた。
関白(秀吉)と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、
この人物を通じて成立したのであり、
彼は播磨の国に非常に多くの封禄を有している。
彼の心を動かしたのは、ジュスト(高山右近)であり、
アゴステイノ(小西行長)が彼を受洗へ導いたのであった。
この貴人は,小寺シメアン(官兵衛)と称した」
ちなみに高山右近は、飛騨の
蒲生氏郷も受洗へ導いている。
ステップの向こうに夢が続いてる 菱木 誠
洗礼儀式
上述のごとく官兵衛がキリシタンであったことはよく知られている。
官兵衛が入信したのは、天正11年
(1583)頃とされ、
毛利氏との領土確定問題や、大坂城普請などに奔走していた時期だ。
大阪あたりで小西行長、蒲生氏郷、高山右近らの誘いを受けた,
と考えれば、フロイスの記述とも一致する。
洗礼名はドン・シメオン
(Simeon josui)という
ローマ字印を用いた。
シメオンとは
「聞く、耳を傾ける」という意味であり、
「josui」は出家後の号である
「如水をローマ字にしたもの」
である。
(このローマ字印を押した書状が今も残っている)
ゴキブリに名前を付けて満ちている 藤本秋声
ちなみに天正6年、官兵衛が
荒木村重の説得のために単身、
有岡城に赴いたのは、二人がキリシタン同士であったからだ、
という説が存在したが、官兵衛が入信するのはその5年後であり、
また最近では、村重がキリシタンであったことが疑われている。
官兵衛は家臣や領民に対し、キリスト教を熱心に勧めたという。
彼がキリスト教の何に強く惹かれたのかは、わからないが、
あるいは有岡城での幽閉体験が影響していたのかも知れない。
こだわりは愛偏屈は葬ろう 伊東志乃
天正15年には息子の
長政(ダミアン)と
弟の
直之(パウロ)も洗礼を受けた。
官兵衛のキリシタンとしての心構えを、
フロイスは次のように記している。
「そなたが予を父と思い、とりわけ何事かにおいて、
予を喜ばせようと欲するならば、
そなた、ただちにキリシタンの説教を聴いてもらいたい。
だが、そなたをキリシタンになることを,
強制しようとは思っていない。
それは、我らの主なるデウス様がそなたに与え給うはずの御恵みと、
聴聞した教えについての理解のほどに待つべきことだからである」
官兵衛は長政にキリスト教の入信を強要せず、
その自主性に任せている。
しかし、結果的に長政は,キリスト教を信仰するに至っている。
淋しくていつも誰かを愛してる 中村幸彦
(画面を拡大してお読み下さい)
官兵衛の信仰の心
「秀吉とキリスト教」
奇しくも長政らがキリスト教に入信した天正15年6月、
秀吉は突如
「バテレン追放令」を発布した。
これにより官兵衛は直ちに棄教したが、
高山右近のように信仰を捨てない者もあった。
最終的に右近は、迫害を避けるためフィリピンのマニラに逃れた。
人という合せ鏡にある迷路 次井義泰
官兵衛は信仰を捨てたものの、
キリシタン大名の
小西行長の遺臣らを保護し、
また遺言では、博多の教会への寄付を命じている。
さらに弟の直之は、秋月の領地を拝領しても、
キリスト教を保護し、領内にレジデンス
(司祭館)を建設するなど、
生涯、キリシタンを通した。
「汝の敵を愛せよ」はキリスト教の基本的教え。
向日葵も夜には雫するのです 杉浦多津子[4回]
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