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川柳的逍遥 人の世の一家言
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福助の耳の埃は拭かぬよう  くんじろう


   豊臣秀吉

「関白・豊臣秀吉」

本能寺の変後、明智光秀を討ったのは羽柴秀吉である。

秀吉は、「山崎の戦い」で光秀を討ち、さらに翌天正11年4月、

「賤ヶ岳の戦い」で対抗馬の柴田勝家を倒し、

信長の後継者としての地歩を固めた。
               のぶかつ
その後、信長の遺児・信雄と結んだ家康と小牧・長久手で

戦うことになるが、秀吉の天下統一の方向で進んでいった。

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事実、「小牧・長久手の戦い」の直後、

秀吉は従三位、権大納言となっている。

秀吉は朝廷内の官位でほかの大名たちの上に立とうとした。

そして、天正13年7月、従一位に叙され、

「関白」に任官したのである。

それまで、藤原氏以外の人間が関白になったことはない。
       ゆうし
近衛前久の猶子となって便宜的に藤原氏となり、

「藤原秀吉」ととして関白になったのだ。

しかし、その直後、秀吉は新たに豊臣の姓を与えられ、

「豊臣秀吉」として関白政権をスタートさせた。

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   聚楽第行幸

関白・秀吉政権の施策の特徴は、一つは官位による大名編成である。

天正16年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸は、

そのピークをなすものである。

諸大名たちは後陽成天皇の前で、関白秀吉への臣従を誓わせられた。

秀吉が従一位関白で、以下、信雄が正二位内大臣、

家康が従二位権大納言というように、

官位によってランクづけがなされ、

秀吉をトップとする大名編成の原則がうちたてられた。

青い空どんな夢でも描けそうだ 河村啓子 
                   おくりょうごくそうぶじれい
もう一つの特徴は、「関東・奥両国惣無事令」の発布に典型的な、

関白としての論理を前面にだした大名支配である。

「関東・奥両国惣無事令」というのは、現存する文書からすると、

天正15年12月3日に出されている。

「惣無事」とは、戦いのないという意味で、

私戦停止令として位置づけられている。

つまり秀吉が、

「関白としての権限において、

関東と出羽・陸奥においては、今後、私戦を禁止する」

としたものである。

秀吉が、関白の論理で全国支配に乗り出したことを物語る。

もぐら叩きかだるま落としか決まらない 大沼和子

ほか、秀吉の施策で代表的なものに、

「太閤検地」と「身分固定化」がある。

太閤検地で秀吉は、ただ土地の面積と収穫量を調査しただけでなく、

検地帳に登録された耕作者を百姓とし、それを年貢負担者と定めた。

続いて秀吉は、身分統制令を出している。

これは、侍・中間・小者などが新たに農民や町民になること、

逆に農民が耕作を放棄して、商人になることなどを、

禁止したものである。

これが、江戸時代の士農工商の身分の原点になる。

竹串がスッと通れば春ですね  米山明日歌

秀吉自身は周知のように貧しい農民の子から身をおこし、

ついには、関白にまでなったわけであるが、

自らが天下統一を成し遂げると、

再び自分と同じような人間が生まれる可能性を否定した。

秀吉は、自分が下克上でのしあがりながら、

下克上の社会を否定したことになる。

これらの政令以前に秀吉は、「刀狩り令」を出している。

これもまた、いつまた下克上の嵐が吹き荒れるかもしれないという、

秀吉の不安感を持っていた現れとされる。

じゃこ食って骨と根性太くする  新家完司

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