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川柳的逍遥 人の世の一家言
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耐えてきた言葉ねとても丸いもの  河村啓子



 八重の和歌と綴る半生

”めずらしと誰か見ざらん世の中の 春に先だつ梅の初花”

                       (画像は拡大してご覧ください)


「村雲の晴れて嬉しき光をぞ見る」

数日後―。

「健次郎さんはそのように申されましたが・・・」

八重は薄茶を点てながら静に口を開いた。

客は、茶友の栗田宗近

「人は誰でも還暦に至れば、赤子に還ります。

新たな人生が始まるのです。記念写真を撮ったあの日、

会津の血を引くすべての方々が、

今また新たな歴史を始めるのだと胸に誓われたに相違ございません」

「そういうものでしょうか」

「しょういうものです」
                                           じゃくちゅうあん
炉が切られているのは、自邸の庭に建てた『寂中庵』である。

しみじみと聞くしみじみとした話  前田咲二



八重が裏千家のお茶を習うようになったのは、

夫の襄が他界して四年後となる明治27年日清戦争の頃だった。
                               ゆうみょうさい          えんのうさい
当時、裏千家の宗匠は12世の又玅斎から13世の圓能斎へ、

代替わりしつつあったが、実際に手ほどきしたのは、
              せんゆかこ
圓能斎の母・千猶鹿子であるらしい。

八重は明治5年から女紅場に権舎長兼機織教導試補として、

奉職しており、猶鹿子はそこの同僚だった。

素質もあったのだろう。

八重は茶の心を解し、やがて師範となり、宗竹なる茶名も授かった。

一日が始まるようにお湯が湧く  藤本鈴菜
 


   茶を教える八重
           
だが茶は金がかかる、
つきがま
月釜をかけようにも道具がなければ格好がつかない。

しかし、八重のふところ事情は厳しかった。

明治の末、土地も家屋もなにもかも同志社に寄付してしまい、

その代わりに同志社から 年毎に養老金は貰っていたものの、

すべて茶道具に費やされていたからだ。

このため、手元に入るのは茶道教室の月謝くらいで、

決して余裕のある暮らしぶりではなかった。
                           したた
だから 床に掛ける短冊も、ときにはみずから認めた。

ひらがなで話すと流れだす小川  和田洋子

いくとせかみねにかかれる村雲の 晴れて嬉しき光をぞ見る 

                                  「八重84歳」

御慶事というのは無論、雍仁親王のご成婚であろう。

たしかに八重は、会津よりも京都の暮らしの方が長く、

兄の覚馬が洋学所に夢を託していたように、

夫の新島襄とともに同志社の設立と発展を常に念頭に置いて生きてきた。

京都初のキリスト教式結婚式を挙げ、洋装に身を包み、洋館に住し、

生姜菓子を焼き、レディ・ファーストを実戦した。

そうしたありようは、ときに旧い慣わしに包まれた京の町衆の反感を買い、

悪妻という陰口も叩かれたが、八重はいっこうに頓着せず、

同志社の建設と運営に邁進した。

新しいうたを歌いに行きましょう  南野耕平

 

       八重が蘇峰に宛てた6通の手紙

明治9年、蘇峰は師・新島襄を呼び捨てにする八重を蘇峰は敵視し、

鵺と言い放ったことで二人に少しながらわだかまりがあった。

そんな八重と蘇峰は明治23年、襄の臨終の場で和解した。

6通の手紙はこの年から大正12年までの30年間に及んだもの。

煩悩が断ち切れないのです かしこ  竹内ゆみこ

もっとも、洋風のみを目指したかといえばそうではなく、

芯にあるのは山川兄弟などと等しく会津人の矜持だったろう。

それが証拠に、ほんの3ヶ月前、

会津高等女学校から修学旅行生が来たときも、

八重は「ご本陣にご案内しましょう」と女生徒とともに黒谷へ赴き、

西雲院本堂において、『日新館童子訓』を暗誦して聴かせている。

八重はどこまでも会津藩士の娘だった。

武家の娘である以上、嗜みとして茶道や華道を学ぶのは当然のことであったし、

ことあるたびに歌も詠んだ。

日本語にもてなしという宝物  早泉早人



八重の愛用した赤楽茶碗

「お歌とお茶を続けていなければ安らげる時もなく、

お国には尽くせななかったでしょう」

「看護のあれこれでございますか」

宗近の問いに八重は、こっくい頷いた。

たしかに矢絵の人生をふりかえるに、それはさながら、

ナイチンゲールのようでもある。

最初は会津戦争だった。

かのおり、八重は戦死した弟・三郎の衣装を纏って断髪、

手にスペンサー銃、腰に太刀、帯に銃弾百発を備え、

敢然と敵に立ち向かったものだが、後方においても懸命に働いた。

兵糧を炊き、負傷兵の看護にあたったことだ。
    しゅうか
が、衆寡敵せず、城は落ちた。

戦争の罪を語れる高齢者  大西將文

この折の体験と、京へ上ってから兄・覚馬と夫・の看護を続けたことが、

八重をして看護の道に進ませる引鉄になったといっていい。

襄が同志社に看護婦学校を設立したのも、八重の助言があったに違いない。

実際、その後も八重は看護の道を歩んでいる。

襄が他界した明治23年には日本赤十字社の正会員となり、

翌々年まで覚馬の介護を続け、最期を看取り、

明治27年に日清戦争が勃発した際には、

4ヶ月間、広島の陸軍予備病院に篤志勘合として従軍し、

40人の看護婦の取締役を務めている。

この風に乗ってみようと決めました  合田瑠美子

 

       茶とともに絵もした八重

「ちょうど、裏千家のお手前を習い始めたときでした。

お茶の心得がなければ、

目まぐるしい病院勤務に身も心も疲れ果てていたことでしょう。

このお茶が、私のこころをなんとか平穏に保ってくれたのです」

そういいつつ、八重は、みずから点てた薄茶を喫した。

ただ咲いてそれから揺れただけのこと  八上桐子

日清戦争の後も、八重は看護とともにあった。

看護学校の助教を勤め、明治37年の日露戦争のおりも、2ヶ月間、

大阪の陸軍予備病院で篤志看護婦として従軍している。

こうした活動が認められ、やがて八重は銀杯を下賜されたが、

そのおりも歌を詠んだ。

"数ならぬ身もながらへて大君の 恵みの露にかかるうれしさ"

砂山をかける損を損と思わずに  墨作二郎

「それにしても会津のお友達は日を追うごとに少なくなってまいりました」

たしかにそうであろう。

八重とともに会津戦争を戦った人々はほとんど先に逝き、

京都会津会のも皆、八重よりも年若の人々が後を継いでいる。

昭和の御代となった今、若き日の八重を知るものは、

ほとんどいなくなってしまった。

"六十とせの昔を語る友もなく あわれさみしきこほろぎの声"

一瓶の夜景ごろんと転がりぬ  筒井祥文



  八重直筆の和歌

昭和6年初秋、八重は会津若松へ帰省した。

大龍寺に実家の山本家の墓を建てるのが目的で、

墓石の裏には

「昭和六年九月合葬山本権八娘京都住新島八重子建乃八七歳」

と刻ませた。

八重がその帰郷の折り詠んだ歌である。

"若松のわが古郷に来てみれば さき立ものはなみだなりけり"

"たらちねの御墓のあとをとふことも 今日をかぎりとなくほとゝぎす"

おしまいの縫い目は銀河系になった  清水すみれ

これが八重にとって最後の帰郷となったのだが、

流石に会津の娘だと感心させる挿話がひとつある。

死に支度である。

宗近の証言によれば、八重は日頃から、

「夏に死んだらこの帯、冬ならこれ」

となにひとつ怠りなく用意していたらしい。

遺言のようなものだが、宗近ら茶友はそのとおりにし、

死化粧も綺麗に施したという。

「もういいかい!」くしゃみをしてはいけません  百々寿子



第三の人生を茶の生徒とー八重

永眠は、昭和7年6月14日午後7時40分。

享年88歳。

墓は京都若王子。

兄・覚馬や父母を葬った同志社共葬墓地の静寂の中で、

夫・襄と寄り添っている。

別れがたき女は夕焼けから生れ  森中惠美子

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