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川柳的逍遥 人の世の一家言
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つきつめてゆくと愛かなてんと虫  時実新子

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大河ドラマ「八重の桜」の怪しいところ。

八重の実家である山本家が広すぎるんです、

下級武士の家庭だから、こんな立派な屋敷には住めません。

また射撃練習場が小さな家にあるわけがなく、

射撃の練習はもっぱら、

鶴松城の三の丸にあった操連場を利用していたと思われます。
(余計なお世話)

難しいことは言わない山桜  中野六助

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「川崎尚之助の消息を尋ねる」

近年になって、八重川崎尚之助の妻となったことが、

確認できる資料が発見されたため、

二人が夫婦だったことは間違いないとされる。

しかし、二人の夫婦生活がどのようなものであったか、

が分るエピソードは残っていないし、

八重自身も尚之助のことについては、

口を閉ざして語りたがらなかった。

夕日の海に色を塗ったのは誰だ  内山雅子

一方、二番目の夫・新島襄については、

回顧録で思い出の数々を語っており、

まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、

差し引いても、あまりにも対照的な扱いといえる。

それでも八重にとって尚之助との夫婦生活が、

忘れたい過去だったかといえば、

決してそんなことはないはずだ。

特に兄・覚馬が京都に発ってからは、

洋学に明るい尚之助が、

兄に代わる八重の心の拠り所となったことは確かだろう。

あらましは流れ星から聞きました  桑名知華子

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尚之助は会津戦争の敗戦と時を同じくして、

八重と別れたとされるが、

それまでは会津藩士ではないので、

開城の際に会津を去ったというのが定説であったが、

近年になって、

尚之助は会津藩士だったことがわかっているので

疑問の余地がある。

他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、

八重の方から別れたという説もあるが定かではない。

(ドラマではここのところを強調しているが)

会津藩が斗南に移封になると、

尚之助も斗南藩士として同行している。

その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅、

尚之助は裁判に巻き込まれて東京に身柄を送られ、

判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。

真実は多数決に棄てられた  岡田幸子
                                                にょこうば
明治5年4月14日、京都府の「新英学校及女紅場」

開校へ、「出頭女」として八重が奉職したのは、

同年4月25日、川崎八重の名での奉職の可能性がある。

4年8月米沢城下、内藤方寄留時は、

「川崎尚之助妻」と記されており、

その後の7ヶ月程の間に、

尚之助と離縁したとする記録はない。

消しゴムは買えるわたしを消すために  田中博造

八重が京都府の辞令で山本姓となるのは、

8年2月8日付けの

「山本屋ゑ女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事 京都府」

とあるのが初見である。

いわゆる、明治4年~8年のどの時点かで、

八重は川崎から山本姓に戻ったのである。

可能性として、尚之助が槇村正直救出のための上京時に、

八重と再会していたかもしれない明治6年か。

尚之助が対らプラキストン裁判のため、

また東京から函館に向かったとされる明治7年か。

漂うていましたアリバイなき時間  きりのきりこ

明治7年5月時点での尚之助の動向を伝える資料が

青森県立図書館にあり、

京都へ行ったとする内容である

これらを考え合わせると、

尚之助は開拓使には函館にと届出、

密かに上洛して八重や覚馬に会い、将来について話し合い、

旧姓に戻ったのは、この7年の時点とする可能性がある。

やっと見つけた出口扉にノブがない  森田律子

ところで、八重の母親・さくにとって尚之助はどのような

存在であったのだろう。

さくの同志社女学校寄宿舎の舎監時代(明治11年~16年)

八重と新島との結婚後であるが、

八重や前夫・尚之助の会津籠城戦での、

勇ましい戦いぶりを、

女子生徒に幾度となく話して聞かせている。(高畑菊「回想録」より)

さくには、八重の襄との再婚は隠す必要もなく、

「尚之助は語るに誇るべき存在であった」 といえるし、

これは八重を含む山本家の尚之助に対する気持ちを、

如実に表している。 (『創設期の同志社』より)

てのひらを重ねて違う虹を見る  前田一石

「八重の女紅場時代」

女紅場とは、女子に読書き算盤・裁縫・料理を教えた施設。

女紅場時代について八重(78歳)の懐旧談の引用に、
                かねおはぐろ
「生徒の服装は鉄漿をぬり、

懐剣をさし、実にその美麗な事は

今日では想像もつかない様であると思ひました」


とある。 (福沢諭吉『京都学校の記』)

髪梳けば富田林の痩せギツネ  井上一筒

なお、明治8年7月に女紅場に入学した岡田しげ子は、

旧会津藩の老女だった芦沢鳴尾が舎長として居り、

人格者で子猫を可愛がっていた様子を懐旧し、さらに、

「新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、

同ぬい子女史
(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)は、

機織や養蚕の先生でありました・・・」


と述べている。 (『鴨沂会雑誌』第50号)

霜柱まことに遺憾に存じます  酒井かがり

当時の女紅場の女生徒には、明治維新になって、

我が世を迎えた公郷(250石位)の子女が多く、

会津戊辰戦争に敗れ、

惨たる戦場と辛苦の生活を味わってきた八重にとって、

女生徒の容姿が如何に強烈な印象を与え、

一生忘れ得ぬものであった事が判る。

これが当時、京風に同化できぬ八重の其後の、

和洋ない交ぜた美装の一要因になった。


バラの花銜えりゃカルメンになれる  下谷憲子

「為念」

奥田は女紅場教員に八重と並んで、

「山本うら子刀自」が居たと述べている。

が、これは山本覚馬の妻・うらではあり得ず、

八重の姉で窪田家に嫁した女性で「山本八重の姉」

ということで「山本うら子」とされたものと思われる。

8年4月~18年8月29日迄、

「授業補」として「窪田うら」が女紅場に在籍している。

なお、女紅場には後に跡見学園を創設した跡見花蹊

絵画を教えていたと説をなす人もいるが、

跡見玉泉と娘の玉枝であって花蹊でない。

生きのびて軽い名前を持ち歩く  森中惠美子

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