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川柳的逍遥 人の世の一家言
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合戦と生きる女が香を焚く  森中惠美子

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砲弾を処置する会津の婦女子 (会津武家屋敷蔵)

(画面をクリックすれば拡大されます)

外国人が称賛してやまないサムライの心を、

もっとも純粋なかたちで残してたのが
会津藩であった。

それは武士だけでなく、

武家の女性たちにまで代々うけつがれてきた。


これが
「会津魂」とよばれるものである。

いっぽんの線を描きつづけています  岩田多佳子

「誇り高き会津の女たち」

慶応4年(1868)8月23日の朝、

入城を知らせる早鐘が城下に響きわたり、

子どもや老人の手を引いた女たちまで、

討ち死にを覚悟で鶴ヶ城に立てこもった。

その数、およそ5200人。

連日連夜撃ちこまれる砲弾にもめげず、

ほぼ一か月間にわたる籠城を戦いぬいた。

足手まといになることをおそれて、

自刃した婦女子は233人にのぼる。

たくましい女の二の腕が細い  福尾圭司

会津戊辰戦争といえば、飯盛山で自刃した白虎隊や、

薙刀で政府軍に立ちむかった中野竹子ら、
じょしたい
娘子隊の、華々しい活躍ばかりが礼讃されがちである。

しかしそれにもまして、

籠城した女性たちの奮闘ぶりに圧倒される。

つぎつぎと運びこまれてくる負傷者で、

本丸内の大書院や小書院は足の踏み場もなかった。

容保の義姉にあたる照姫の指揮のもと、

負傷者の看護にあたったのは、女たちである。

野たれ死にしても笑っているつもり  和田 洋子

着の身着のままで、湯にも入らず、

傷病兵の看護から弾丸づくり、炊き出しと、

昼夜の別なく働いた。

とりわけ5200人分の食糧の確保は大変な苦労だった。

少しでも米を減らすまいと、

兵士には玄米のにぎり飯を与えて、

女たちは城に備蓄してあった古い道明寺粉を練って食べた。

ときには命がけで城外に出て、野菜などを調達する。

 道明寺粉=もち米を水に浸し蒸してから乾燥させ粉に挽いたもの。

動いてる軸になったりなられたり  徳山泰子

敵が撃ちこんでくる砲弾が破裂する前に、

濡れた布団や着物をかぶせて爆発を防ぐ「焼玉押さえ」

という危険な仕事にあたったのも女たちだった。

失敗してふきとばされたものも多い。

軍事総督として籠城戦の指揮をとった、

家老・山川大蔵の妻・登勢も、

砲弾が破裂して致命傷を負った。

「早く私を介錯してください」

と訴える義姉・登勢の悲痛な叫びは、

当時九歳だった山川捨松(幼名咲子)の脳裏から

消えることはなかった。

きらきらと水陽炎や経流し  大西泰世

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   中野竹子

今の誰に似ているかかなりの美女と言われた。


「中野竹子エピソード」

八重はかねてから娘子隊に入ることをすすめられていたが、

薙刀で戦争はできないと思っていたので、

それには加わらなかった。

中野竹子が敵の銃弾を受けて戦死したのち、
                                   
新政府軍の包囲網をくぐって、
                                   こうこ
入城をはたした竹子の母・中野孝子は、

八重のもとにかけより、

「あなたがどうしてわたくしどもの組にお入りにならないのか、

  卑怯者のように思っていました、が、

  鉄砲に薙刀ではかないません。

  ようやく自分の娘
(竹子)が討ち死にしてから悟りました。

これから何日籠城するかわかりませんが、

下の娘
次女優子)に鉄砲を教えてください」

と頼んだ。

ペガサスが今朝は馬刺しになった由  井上一筒

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竹子と優子の姉妹は、父が江戸常詰の藩士だったため、

江戸で生まれ育った。

姉の竹子は7、8歳のころから剣術を習っていたほど、

武術のたしなみがあったが、

鉄砲にはまったく感心がなかったようだ。

竹子だけでなく、大方の会津藩士は、

「鉄砲など野蛮人の兵法だ」 と侮っていたから、

八重の兄で砲術師範の山本覚馬が、

どんなに洋式銃による兵制改革を進言しても、

聞きいれられなかった。

生きていく透視図法に跨って  河村啓子

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鶴ヶ城に入城する八重 (白虎隊記念館)

「仇討ちへ女性組織」ー【娘子隊】

「鳥羽伏見の戦い」の後、新政府軍は、

天皇家の紋章・錦の御旗を先頭に、

江戸を目指し怒涛のように進んでいく。

慶応4(1868)年2月16日、会津藩主松平容保は、

江戸の上屋敷、和田倉邸を出て、会津へ向かう。

この時、江戸詰の会津藩士と家族も会津へ帰ることとなり、

皆、親戚縁者を頼り、それぞれ会津を目指した。

同22日、容保は会津へ到着した。

27日には家臣に対し、

「薩長二藩は、私怨を酬いろうとして、

王師
(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしている」

と忠告があり、

「非常に備えよ」と非常事態宣言をしている。『諸月番申渡書』

内幕を描けば見事なドーナッツ  谷垣郁郎

八重は、若松城下に続々戻ってくる江戸詰の家臣や、

その家族、さらには、

弟・三郎の遺髪や形見の軍服が届いたことから、

会津藩をめぐる情勢が一層緊迫してきたことを知る。

そして、最愛の弟を失った悲しみは、

新政府軍に対する憎しみ、怒りへと転じていく。

城下の女性たちは、

八重同様、新政府軍に対し怒りを覚えていた。


このころ、城下には「女隊」または「娘子軍」

と呼ばれる女性たちの組織が結成された。

八重も属している。『会津戊辰戦争』

陽炎になる息つぎをつづけます  美馬りゅうこ

水島菊子と姉の依田まき子は、

まき子の夫が鳥羽伏見の戦いで戦死しているが、

同じように、

「仇なれば、是非一太刀たりとも怨まんと思い」

といった者が、20数人いたという。

ただし、「指揮者なき」とあり、

江戸勘定役・中野平内の妻・孝子(43)が年長であったことから

一定の指揮を執っていたようだ。

婦人らの一団は、

江戸詰の中野孝子・竹子、優子ら親子と、

会津在住の八重、依田まき子、水島菊子らに分かれていたが、

皆思いは一つ、

「肉親の仇討ち」でまとまっていた。

岸壁に靴を残して参ります  筒井祥文
 

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