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川柳的逍遥 人の世の一家言
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表にはエホバ裏には桃太郎  田中博造

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       幕末の浮世絵

「政変のその後」

元治元年(1864)、長州藩は池田屋において、

謀反の密儀をしていた同藩士らが、

京都守護職預かりの、新選組によって、

殺傷、捕縛されるという事件がおきた。

また蛤御門における会津・薩摩連合軍との攻防で、

長州藩は朝敵となる。 この一連の事件で、

会津藩・薩摩藩・新選組に対して抱く、

彼等の憎悪は一気に高まった。


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その後、幕府軍は長州征伐に出陣するが、

期待ほどの成果は上がらず、一方で、

苦境にあった長州藩と、

しだいに倒幕に傾きつつあった薩摩藩は、

その距離を縮めていった。

こうして手を結んだ薩長は、

一気に倒幕への動きを加速していく。


ここから、会津藩をめぐる運命の歯車が少しづつ狂っていく。

教えます日暮れのお客の叩き方  酒井かがり

孝明天皇崩御の五ヶ月前、慶応2年(1866)12月、

将軍・家茂は行き詰った長州征伐の心労がもとで病没し、

将軍となっていた慶喜は、

倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、

土佐藩が建議した「大政奉還」しかないと判断した。

そして慶応3年(1867)10月、朝廷への政権返上を決定した。

ゆく末に安全ピンを敷き詰める  富山 悠

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   岩倉具視

意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、

岩倉具視薩摩大久保利通、西郷隆盛らと図り、

先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、

御所の外門を封鎖して「王政復古」の大号令を発した。

≪こうして12月9日、王政復古の大号令が出されると、

 薩長を中心として発足した新政府から前将軍
慶喜は除かれた≫

こんにゃくにボディブローをくらわせる  笠嶋恵美子

岩倉は、将軍職の廃止、京都守護職の停止、

旧幕府の領地返上などを強引に決定した。

母が有栖川宮出身であった慶喜は、

尊皇の想いが強く、天皇の都を血で汚したくないと、

戦いを嫌って大坂城に移る。

だが、薩長の横暴に憤る主戦論に抗しきれず出撃を命じた。

会津、桑名を主軸とした1万5千が京都をめざし、

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で薩長軍と衝突した。

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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