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川柳的逍遥 人の世の一家言
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横っ腹に草間弥生の玉受ける  三村一子

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  幕末の京都地図

「長州のやってきたこと」

日本の歴史をまったく知らない人でも、

長州藩が当時置かれていた状況を把握すれば、

戦争回避、そして外国との講和以外に道はない、

とわかる。

長州は既に米、仏と個別に戦って惨敗しているし、

それ以後、武器の改良がなされたわけでもない。

しかも今度の敵は、

米仏に英蘭が加わった連合軍なのである。

爆発のための言い訳考える  清水すみれ

長州藩は皮肉なことだが、トップである藩主は、

「敵であるはずの欧米」を嫌ってはいなかった。

にもかかわらず、開戦した。

元治元年(1864)7月26日連合艦隊は横浜を出航し、

8月2日から3日にかけて、姫島沖に集結した。

ここで陣形を整えると、4日の午前9時には、

全艦関門海峡へ向かった。

この日には攻撃は行われなかった。

絶壁の端ならいつも空いている  森田律子

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  下関(馬関)戦争図

午後までに各艦は、関門海峡に設けられた、

長州側の砲台から充分な距離をとって、投錨した。

つまり、長州側の旧式大砲の射程距離の外に、

身を置いたのだ。

逆に攻める側の戦艦の大砲は、充分に陸まで届くのである。

午後3時、旗艦ユーリアラスのマストに戦闘旗が掲げられた。

各艦は一斉に地上の長州側砲台に向けて砲撃を浴びせた。

連なる一本の道にて真昼の花火  山口ろっぱ

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   連合軍の砲弾

≪長州藩の前田砲台跡で行われた発掘調査で見つかった砲弾。

  4カ国連合軍の艦船から撃ち込まれたものと考えられる≫

一方、長州側砲台も応戦するものの、

弾丸は敵艦の前で、ポチャンと落ちるだけで、

何の打撃も与えられない。

結局、アメリカ、フランスの単独攻撃の時と同じことになった。

長州は負けた。

負けるべくして負けた。

しかし、勝てないと解りつつ戦争に挑んでくる日本人の、

闘志や根性に、

「日本人恐るべし」の印象を刻んだことは、

日本が外国の植民地化にされずに済んだという、

ある意味立派な勝利となるものであった。

分った振りするしかない地動説  三宅保州

「ではなぜそんなバカなことが起こるのか」

それは第一に、そもそも実行不可能な攘夷、

それも完全攘夷を、

藩を団結させるためのイデオロギーとして、

採用してしまったからである。

そして第二に、その完全攘夷を至高の存在である

「天皇が求めている」 という形で権威付けされたからだ。

これが「尊王攘夷」ということ。

そもそも尊皇と攘夷は別次元の話で、

尊皇とは、天皇に忠義を尽くすことであり、

攘夷は、外国勢力を国から排除することだ。

直接の関連性はない。

それを孝明天皇が望んでおられるという形で、

絶対に逆らえないスローガンに変えたのが、

この時代であった。

≪こう読むと長州は、何らかの行き違いがあり孝明天皇に嫌われたが、

   朝廷の敵でないことがわかる≫


夕凪の裏に罵詈雑言の立つ  酒井かがり 

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徳川慶喜・勝海舟・松平春獄       

「長州生き残る」

下関戦争から3ヶ月後の元治元年(1864)10月、

大坂城評議の間で、征長軍総督の徳川慶勝(尾張藩)、

副総督の松平茂昭(越前藩)、大目付、軍目付、

諸藩の代表者ら、勝海舟西郷隆盛も列席して、

軍議が開かれていた。

諸藩に長州総攻撃の作戦が指示され、

征長軍十数万の兵を進軍させて、

「いつ攻撃するか」を話し合うだけだった。

躓いたところへ飾る余命表  桜風子   

ところが席上、西郷が「長州に恭順を促す」

「首謀者の三家老の切腹で事を治める」

と提案すると、一同はざわめき猛反発が始まる。

慶勝は声を荒げて西郷に噛みつき、茂昭も、

計画通り領地割譲のために、長州を打つと引かなかった。

西郷は、十数万の大兵力を進軍し、

包囲して公議の威光を示せば、

下関戦争で諸外国連合に惨敗している長州は、

必ず従うと自信があった。

梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ

西郷の「和平交渉案」は征長軍の方針を一変させ、

その結果、長州は三人の家老の首を差し出して、

幕府に恭順の意を示し、一戦も交えることなく、

征長軍は兵を解いた。

守護神は電子レンジと申します  井上一筒

禁門の変が7月19日、そこから3ヶ月のあいだに、

長州とは正反対の位置にいた西郷に何があったのか。

9月11日の夜のこと、

長崎から神戸に戻っていた勝海舟は所用あって、

大坂へ出張していた。

それを知った西郷は手紙を出して、面会を求めた。

なぜ西郷は面識のない勝を訪ねようと思ったのか。

それは西郷が神のように崇拝した亡君・島津斉彬であった。

持国天グイッと突き出す股関節  岩根彰子

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こうして勝と西郷は大坂の専称寺で、密談の席を持った。

そこでどんな話し合いがなされたか。

密談だから、知りようもないが、多分、そこで勝は、

「今は欧米列強が日本を植民地化しようと狙っている、

  時代ではないか、日本人は一致団結すべきであって、

  身内で争って場合ではない。

  薩摩も長州にいろいろ言いたいこともあろうが、


  ここは心を広く持って寛大な処分で許してやるべきだ」

とでも言ったのであろう。

こうして一つの出会いが歴史の歯車を大きく動かすのである。

バイブルに般若心経書いてある  坂田こういち

対面の後、西郷は大久保利通宛に有名な書簡をおくっている。

「勝氏へ初めて面会仕候処、実に驚入候人物にて、
              つもり     ささしこし
最初は打叩く賦にて差越候処、頓と頭を下げ申候。

どれ丈けか智略のあるやらしれぬ塩梅に見受申候。

先英雄肌合の人にて佐久間(象山)より

事の出来候儀は一層も越候半、

学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候へ共、

現時に臨候では、此勝先生とひどくほれ候』


"勝氏に初めて会いましたが、実に驚くべき人物です。

最初はへこませるつもりだったのですが、すぐに頭を下げました。

どれほど智略があるやらわからないほどで、

まず英雄の肌合を持った人物でしょう。

佐久間象山より実行力があり、学問と見識でも、

いまや勝先生の方がまさっているかもしれません。

いやはやひどく惚れこみました"


もちろん勝も、

西郷をべた誉めしていることは衆知の通りである。

一年に一度はベッドから落ちる  新家完司

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