忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[353] [352] [351] [350] [349] [348] [347] [346] [345] [344] [343]
あの世のことは曖昧なままでいい   新家完司

cf1a474c.jpeg

中野姉妹柳橋出陣の図 (会津新撰組記念館)

画面をクリックすれば大きく見れます。


「中野竹子」

中野竹子は文武両道・才色兼備、

江戸弁を話す利発な女性であった。

5歳にして小倉百人一首をすべて暗唱、

7歳の頃より目付・赤岡大助に手習や剣術・薙刀を師事した。

書の腕は相当でり、

備中庭瀬藩主・板倉勝弘正室の祐筆を勤めた。

もののふ
武士の猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも

                                   〈竹子辞世の句〉

手のひらで遊ばせている天道虫  河村 啓子

50a4acf2.jpeg


文久2年(1862)ごろ、会津藩江戸屋敷には、

「会津名物業平式部小野はだしの中野の娘」

という俗謡があり、

6歳年下の妹・優子ととともに中野姉妹は、

小野小町も驚く美麗な娘と称えられた。

文久3年、赤岡が大坂御蔵奉行に就任する際、

竹子は養女とばり大坂の伴われたが、2年後、

赤岡の甥との縁談を嫌い江戸に戻った。

中野家が会津城下に移ったのは慶応4年。

竹子は赤岡とともに坂下町で、剣道を教えた。

 坂下では、羨望の的であった入浴中の竹子を若者が覗こうとし、

   彼らを追いかけて斬ろうとしたというエピソードが残る。


心音の一つを守る屋根と壁  居谷真理子

33bdc6ac.jpeg

「竹子の戦争」

8月23日、会津藩若松城下に、早鐘が鳴り響いた。

会津藩の要衝の地であった十六橋を突破し新政府軍が、

会津城下に進軍してきたのである。
                                     こうこ
新政府の侵攻を知った竹子と母・孝子と妹・優子は、

髪を切り庭先に埋め、白羽二重の鉢巻、

深緋色のたすきをかけ、

柳腰に大小、右脇に薙刀を持ち、

6人余りで照姫が向かったという会津城下坂下町へ急いだ。

が、情報は誤報。

葉桜になり哲学の道になり  藤本秋声

翌24日、竹子らは会津家老・萱野権兵衛に従軍を願い出る。

いくら薙刀の遣い手の女子たちとはいっても、

新政府軍は銃で武装している。

権兵衛は、「ならん!、絶対にならん!」と拒否。

しかし、竹子は、

「参戦のご許可がいただけないのであれば、

  この場で自刃します」


と言って、一歩も挽かない。

うっとこの釘はひたいで打てますの  井上一筒

根負けした権兵衛は、翌日になって、

彼女らの衝鋒隊への参加を許した。

陽の方へせめて向かむと花の首  前岡由美子

44904c47.jpeg 1b97249b.jpeg

    竹子像      柳橋の殉節碑

竹子が新政府軍と戦った柳橋付近に建てられた碑と像。

碑には竹子の辞世の句が刻まれている。


城下の柳橋(涙橋)付近で長州・大垣藩兵との戦闘を展開、

奮戦する竹子を銃弾が貫いた。

妹・優子に介錯させた竹子の首は農兵により、

坂下の法界寺に葬られた。
             じょしたい
生き残った娘子隊は、28日に入城し、籠城戦にに参加。

母は洗濯中に飛び込んできた砲弾を、

盥の水で素早く消しとめ称賛された。

生き延びた優子は、後年に、

「姉は一風変わった、言わば男勝りの様な性質」

と書き残した。

んの字を上手に書いて箱の中  奥山晴生

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開