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川柳的逍遥 人の世の一家言
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阿弥陀籤当りは雲の詰め合わせ  岩根彰子

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幕府が派遣したオランダ留学生達(国立国会図書館)

前列右端が西周、後列中央に榎本武揚の姿が見える。

(画面をクリックすれば大きくみれます)

「山本覚馬、失明して」

視力を失った砲術家に一体、何ができるというのか・・・。

視力を失うのは、ただでさえ恐ろしい。

しかも砲術の専門家である覚馬の心境はいかばかりか。

その懊悩は、常人に推し量れるものではないだろう。

人間の隙間ににがい句読点  皆本 雅

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  勝海舟

勝は西と覚馬を結びつけた。

ところが驚くべきことに、その後の覚馬の歩みは、

止まるどころか、むしろ力強いものとなってゆく。

覚馬の歩みの中でとりわけ重要なのが、
                               にしあまね
近代日本を代表する啓蒙家・西周との出会いである。

慶応2年(1866)、覚馬は勝海舟の紹介により、

京都で西周と知遇を得た。

西は文政12年(1829)生れで、

覚馬より一歳年下の旧津和野藩士である。

幸運はタラちゃんに会う曲り角  山本早苗

だが、覚馬と西では、学問に対する姿勢が正反対だった。

西は、喩えるならノーベル賞を狙うような学者肌で、

実社会に活かすための哲学とはいえ、

自身は学理を突き詰めていくタイプであった。

対する覚馬は、探究心旺盛ではあるものの、

より実戦を重視した。

≪覚馬は、『管見』で、日本の近代化の具体的な提案をし、

   維新後の京都府顧問時代には、

   そのための施策を実現させている≫


それからの問わず語りが胸を突く  オカダキキ

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    百一新論 西周

とはいえ二人が深い信頼関係で結ばれていたことは、

間違いない。

西の代表作・『百一新論』は、

覚馬が記録した西の講義録をもとに、

明治に入ってから覚馬が中心となって刊行したものである。

そして覚馬の手による序文には、

「我友西氏」の文言がある。

学問に対する覚馬の真摯な態度には、心から頭が下がる。

年下の相手に教えを請うには、よほど謙虚でなければできないからだ。

自分はこれだけの知識しかない、


足りない部分は相手が誰であれ、学び取れなければならない・・・。

覚馬の生涯は、兎に角、謙虚な精神に貫かれていた。

リバーシブルのどちらも味方して着てる  山本昌乃

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覚馬の眼病を診察したボードウィン(長崎大学付属図書館)

「長崎で突きつけられた現実」

眼病を患って後、覚馬は西以外からも、

貪欲に西洋知識を吸収していく。

西と出会った慶応2年、覚馬は第2次長州征伐後に、

藩命によって、最新式の銃砲を購入するために、

長崎に派遣された。

そして、多くの西洋人と直に交流し、次の事を教わった。

アメリカでは器械で田畑を耕し二人で70人分の働きをする。
                                                (ドイツ・レーマン)
イギリスの富は蒸気器械の発明によってもたらされた。
                                               (オランダ・ハラトマ)
外国の商人は貿易によって富を得ている。
                                 (オランダ・ボードウィンとイギリス・グラバー)

素直になった風もフォローになってきた  佐藤美はる

一方で長崎は、覚馬に恐れていた現実を突きつける。

ひとつは、会津藩の「後れ」である。

西国諸藩は以前から、西洋事情をつかめる長崎に、

藩士を派遣していた。

すでに洋式銃の購入は、先進的でも何でもなく、

中には蒸気船まで購入している西南雄藩すらあった。

組織対組織の戦いでは、すでに会津は後れを取っている・・・。

覚馬は否応なく、そう認めざるを得なかったはずだ。

ガラパゴスのトカゲに出会う井の蛙  藤本秋声

同時に、自分がいかに会津藩という組織の中で、

孤立した存在か 実感した。

長崎に派遣されたとはいえ、

覚馬の目指す洋式の軍制改革が、

会津藩で諸手を挙げて認められたわけではない。

同時期に長崎にあった坂本龍馬は、

脱藩浪人ながら、薩摩藩の支援のもと、

亀山社中を率いて存分に働いていた。

それに比べると、

覚馬は組織にありながらも、孤独な存在だった。
 
どの道を歩いてみても雨が降る  河村啓子

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   西 周

「西 周」

嘉永6年(1853)に藩命によって江戸に出たところ、

ペリー来航に刺激されて、蘭学を学ぶために脱藩。

その後、幕府に才能を買われた西は、

オランダ留学を命じられ、

文久3年(1863)8月から慶応元年10月まで、

ライデン大学の講義を受ける。

西が学んだのは、主に政治学だが、それだけでなく、

J・S・ミルの経済学やカントの哲学も修めた。

帰国後は徳川慶喜のブレーンとなり、

新進気鋭の蘭学者として名を馳せていく。


日本刀鍛え直した差し歯です  井上一筒

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