忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[549] [548] [547] [546] [545] [544] [543] [542] [541] [540] [539]
納豆の醤油袋とカラシの袋  河村啓子  


   吉田稔麿

「吉田稔麿」

松陰の生家の近くで、足軽の子として吉田稔麿は生まれた。

13歳の時に江戸藩邸で小者の職に就き、萩に帰ってくると、

近所ということもあり「松下村塾」へ通い出した。

稔麿は高杉晋作久坂玄瑞と共に「松下村塾の三秀」と称せられる。

稔麿は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。

松陰は稔麿を、

「才気鋭敏にして陰頑なり。

  稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。

  それは人により安易に動かされるものではない」

と高く評価した。

松陰の処刑後、玄瑞らと攘夷活動に奔走、

玄瑞が下関で結成した「光明寺党」に加わった。

さらに高杉が「騎兵隊」を組織すると、

これに刺激を受けて各地で多くの緒l隊が作られたが、

稔麿は被差別部落の人々からなる「屠勇隊」を編成した。

元治元年(1864)、京都の旅籠・池田屋に、

長州藩を中心とする尊攘派の志士たちが終結。

その中に、たまたま江戸から出てきていた稔麿の姿もあった。

そこを新撰組が襲い、稔麿は体中に傷を負って重囲を脱したが死去。

享年24。

『結べども 又結べども 黒髪の 乱れそめにし世をいかにせん』

クラゲが出ると境界線を引きにくる  山本昌乃


  入江九一

「入江九一」

天保8年(1837年)、下級武士の家に生まれる。通称は万吉。

のち、明治政府の政治家となる野村靖は実弟。

妹・すみ子伊藤博文の最初の妻。

江戸藩邸の下働きをして家計を助けながら学問に励み、

短期間ではあったが「松下村塾」にも学び、松陰に深く傾倒した。

伏見要駕策では松陰の指示を受け、「尊攘運動」に奔走するも、

安政6年(1859)、捕らえられ、萩の岩倉獄に投ぜられた。

文久3年(1863年)1月には吉田稔麿らと士分に取り立てられたが、

無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。

また京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で、

高杉の奇兵隊創設にも協力し、「奇兵隊」の参謀となった。

同年「8月18日の政変」により、萩藩が京都での地位を失うと、

失地回復のため奔走。

元治元年(1864)7月、「禁門の変」では参謀として戦ったが、

重傷を負い自決した。享年27歳。

後世、高杉・久坂・吉田稔麿とともに

「松門四天王」のひとりに数えられる。

『長門人の心 如何にと人とはば 月日を指して 教へたまへよ』

胸のうちわかったように猫がくる 上月真佐子


  野村 靖

「野村 靖」

野村靖は下級武士の家に生まれた。通称 和作。

「禁門の変」で戦死した入江九一の弟。

安政4年(1857)、16歳で「松下村塾」に入り、松陰に師事。

同5年、松陰が公家・大原重徳の西下を計画したさい、

密使となって京都に入るが失敗。

さらに同6年2月、兄に代わり松陰の伏見要駕策のため奔走したが、

これも失敗して3月、萩城下岩倉獄に投ぜられる。

万延元年(1860)3月、赦されて過激な攘夷運動に加わり、

公武合体を唱える長井雅楽の暗殺計画に名を連ねた。

文久3年(1863)、松陰に師事したことが認められ、

士籍に列せられる。

慶応元年(1865)の藩内戦や2年の「長州戦争」などでも戦う。

明治4年(1871)には岩倉使節団に加わり、欧米各国を視察。

同6年に帰国したのち、外務権大丞や神奈川県令を務める。

伊藤博文内閣では内務大臣、松方正義内閣では逓信大臣を務めた。

晩年は富美宮・泰宮両内親王の養育掛長を務め、鎌倉で病没。

遺言により、世田谷の松陰墓所の傍らに葬られ、

師よりもひと回り小さな墓碑が建てられた。

おしまいに羽音をたてる洗濯機  芳賀博子


  前原一誠

「前原一誠」

長州藩士の長男として生まれた前原一誠は、

安政4年(1857)24歳の時、

久坂玄瑞高杉晋作らと共に「松下村塾」に学んだ。

松陰は一誠を

「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。

  けれども、人物完全なることは両名もまた佐世(一誠)に及ばない」

「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」

と評している。

松陰の死後は長崎に遊学して洋学の修得に励む。

文久2年(1862)に脱藩し、

久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画するも失敗に終わる。

その後も倒幕活動に尽力。

文久3年の「8月18日の政変」後、都落ちした七卿の用掛となり、

元治元年(1864)下関で英・仏・蘭・米の4ヵ国連合艦隊に応戦した。  

「長州戦争」(四境戦争)では小倉藩の降伏に尽力し、

戊辰戦争では長岡城攻略や会津戦線で武功を挙げた。

新政府において参議を務め、

大村益次郎の後任で兵部大輔などを兼ねた。

しかし大村の方針であった徴兵制に反対し木戸孝充と対立。

やがて徴兵制を支持する山県有朋に政界を追われる。

帰郷した前原は明治9年、

不平士族を統率して「萩の乱」を起こしたが、鎮圧されて処刑。

松陰の叔父・玉木文之進は、

塾生たちが萩の乱事件に関与した責任を感じて切腹した。
       たいへん
『これまでは いかい御苦労からだどの

               よびだしの声まつむしや 秋の風』

ギトギトの人とは握手したくない  森田律子

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開