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川柳的逍遥 人の世の一家言
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脱ぎ捨てた喪服も黙り込んでいる  新家完司

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  平家物語「物怪の事」

福原岡御所の清盛寝所に現れた巨大な妖怪の顔

(画面をクリックし拡大してご覧下さい)

「安徳天皇の福原への遷幸」

以仁王方の軍勢には、

興福寺・園城寺の衆徒も参加していた。

反乱軍と寺社勢力が手を結ぶのは、

従来の寺院と国家権力の

関係からは考えられない事態であった。

≪平安後期以降に頻発した南都甫北嶺の大寺社の強訴が

   時々の政権にとって悩ましい課題であったことは周知の通りだが、

   その要求は寺院内部の既得権益に関するものであり、

   俗界の政治問題に口出しをする性格のものではなかった≫


しかし今回は清盛の打倒という以仁王の目的に沿って、

両寺院の大衆が参戦したのである。

靭帯の切れた人から泣きなさい  井上一筒

京近辺の大寺社にとって、

後白河院を幽閉し厳島神社を偏重する清盛と、

彼が成立させた高倉院・安徳天皇という体制は

到底認められるものではなかったのだ。

京に都があれば、

地理的に大寺社の行動に直面せざるをえない。

また、自身の血を継ぐ皇統に、

「新王朝に相応しい首都を造りたい」

との思いは自然であろう。

その地として、清盛は大陸との貿易の一拠点であり、

日常生活をいとなむ福原周辺を構想した。

清盛は始まる前も騒がしい  北野哲男

以仁王に加担した興福寺の処分など、

事後処理の途中であったが、

ここに清盛は福原への遷都計画を実行に移したのである。

移動の理由として、南都を攻めるためという噂があった。

また京に留まる貴族には、刑があるという話もあった。

すでに5月30日に、藤原邦綱から九条兼実のもとに、

「来月3日に福原への行幸がある」

という情報が入り、兼実は仰天している。

後輪をぐっとつかんで黙らせる  湊 圭史

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      御幸略記

6月2日、後白河院・高倉院、安徳天皇が京都を出発し、

摂津国福原に向かった。

≪京外の行宮への天皇の移動は平安遷都以来初めてであり、

   当初は「行幸」すなわち天皇の移動に院も同行するという

   名目であった≫


6月3日、一行は福原に着いた。

安徳天皇は平頼盛の邸宅を、後白河院は平教盛の邸宅を、

高倉院は、清盛の別第を、

摂政基通は、大宰府安楽寺別当・安能の房を、

それぞれ御所としたが、

翌4日には、安徳は清盛の別第に遷り、

高倉院は頼盛の第に遷っている。

家主の頼盛は正二位に叙された。

油断して鬼と添い寝をしたようだ  中野六助

6月11日には、右大臣・九条兼実が、

「清盛が遷都の方針にほぼ決まったが、

  右大臣の参入を待っている」


という伝聞を聞き、13日に京を発している。

しかし和田に造営する計画が、土地の広さ等の問題で、

15日に小屋野に変化し、16日には厳島内侍の託宣で、

小屋野を改めよとあって、印南野になるなど、

都の造営計画も二転三転したのだった。

この歳になっても音程定まらず  嶋澤喜八郎

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      高倉御幸

7月16日に福原をしばらく天皇の皇居とすることとした。

8月4日以前には、

なおも故郷たる平安京は放棄せず、福原は

「離宮として、八省や大内を移転することはない」

としたが、8月12日には、

中山忠親等の公卿も福原に宅地を与えられている。

清盛は、なしくずし的に遷都計画を進めていった。

水仙と梅で始まる物語  立蔵信子

この頃には、清盛の親類の中にも、

福原への遷都計画に異を唱える者が現れはじめた。

7月の末頃から、高倉が体調不良となり、

29日には尊号等を辞退した。

8月4日には高倉が、

「実母建春門院が自分を捨てて、遷幸したのは不本意」

と言ったという夢を見たといいだした。

中宮徳子藤原隆季も同様の悪夢を見たという。

高倉の体調不良は事実であるが、

夢にかこつけて「遷都への不満」を表明したのだろう。

体の中のどこかが痛む霧の中  森中惠美子

7月30日には、

「大嘗会を今年京でするか福原でするか」

という諮問が人々になされ、それに対して藤原隆季が、

「遷都はどうせ無理だろう」

と言った事が清盛に伝わり、清盛を激怒させている。

天皇の重要な就任儀礼である大嘗会を行うにあたって、

その場所が帝都であるべきであり、

離宮では問題であるとする声も強かった。

しかし、清盛は形通り里内裏を造ることで、

福原で大嘗会を行う方針を示した。

銀食器行進曲で攻めてくる  岩根彰子

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8月12日以前には、隆季や平時忠が、清盛に

「京都に遷都せよ」という高倉の仰せを伝えた。

しかし清盛は、「参るつもりはない」 と返答し、

さらに、「なぜ大嘗会を行わないのか」

と言っている。

そのため以後は、遷都を言う者はいなくなった。

本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子

8月19日、清盛は厳島参詣に出発し、

さらに宇佐八幡宮に参詣している。

8月29日以前には、皇居を造営し、

八省と重要な官司を建てて

内裏を移転するという方針を決定した。

福原を正式の首都とする清盛の構想が、

現実になってきたのである。

真っすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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