きつね狩りむかしむかしのものがたり 森中惠美子
『鹿児島暴徒出陣図』 月岡芳年画
「西南戦争」
士族反乱の中でも、もっとも大規模かつ最後となったのが、
西南戦争である。
やはり、「征韓論」に敗れて下野した西郷隆盛が中心だったが、
西郷自身は、はじめから乱をおこす意図はなかった。
次第にまつりあげられたというのが、真相だったようだ。
明治6年の政変で辞表をたたきつけて下野したときも、
「征韓」の意向が通らなかったからではなく、
裏で天皇を操作する大久保利通や岩倉具視らのやり方に腹を立て、
政治に対する熱意を喪失したから と考えられるからである。
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しかし、周囲の人々は、そのまま西郷を隠居させなかった。
腹心の桐野利秋・篠原国幹も鹿児島にもどり、
鹿児島は反政府の「独立国」、言葉を変えれば、
「西郷王国」の体を示しはじめた。
明治7年6月に、士族教育機関として新設された私学校がその中心となり、
新政府に対抗する県政を展開したため、
大久保利通としても、何とか手を打たなければならない事態となった。
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先行する「佐賀の乱」や「神風連の乱」とは関係なく、
大久保利通と西郷隆盛の衝突はもはや時間の問題だったのである。
反乱の機運は鹿児島側においても高まっていたが、
挑発したのは大久保利通側であった。
すでにみたように、警察権力を握っていた大久保は、
明治10年1月、鹿児島出身の警官20数名を一時帰郷させた。
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西郷側の動きをスパイさせるのがねらいだったが、
もう一つには、警官がつかまることも計算に入れていたようだ。
そして計算通り(?)スパイがつかまり、私学校党の拷問をうけ、
彼らの口から、西郷を暗殺し、私学校党を皆殺しにするという
政府の方針が暴露された。
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私学校党が怒ったのはいうまでもない。
しかし、このときも西郷自身は血気にはやる人々を押さえ、
とりあえず、暗殺未遂事件を糾弾するために上京することになった。
「西郷隆盛一人が上京したのではあぶない」
というわけで、私学校党が護衛することになった。
実は、西郷隆盛の挙兵は、この護衛軍の出発によってはじまったのだ。
「西南戦争は西郷を神輿にかつぐ、
一種の強訴のような形で出発することになった」 (上田滋氏談)
まさに西南戦争の発端は一種の強訴だったのである。
今しがた友を喰らってきたところ くんじろう
西南戦争新聞記事
しかし、一度まわり出した車はなかなか止まらない。
結局は、3万の軍勢を擁する西郷隆盛の政府への反乱となり、
熊本城の攻防戦、田原坂の戦いなど、
近代戦史に残る戦いを経て、
とうとう9月24日、鹿児島の城山にこもったところを
政府軍に攻撃され、西郷は自刃する。
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こうして佐賀の乱からはじまった一連の士族反乱は、
ことごとく大久保政権によって鎮圧された。
反乱を力で捻じ伏せたことによって、
大久保独裁権力はますます強大化するわけであるが、
その大久保利通も翌11年5月、
石川県士族・島田一郎ら6人に襲われて暗殺されている。
ホロコースト手繰れば魚網かすみ網 山田ゆみ葉
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