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川柳的逍遥 人の世の一家言
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崖に立つひとりの知恵がつきたとき  森中惠美子

 

         佐賀の乱  (画像は大きくしてご覧ください)

明治7年2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった乱。

「不平士族の乱」

中央集権国家を建設するために、

明治政府が維新の功労者である士族を切り捨てるのは、

歴史の皮肉な必然であった。

まず明治4年、「廃藩置県」が断行され、士族はよりどころを失い、

明治9年には、「代々の禄(給与)も金禄公債(一時金)と引きかえ」

に打ち切られた。

金禄だけで生活できる者はまれで、多くの士族は、

資金を元手に商売を始めるが、

俗に「士族の商法」と嘲笑されたように大半は失敗した。

空き箱のその後やっぱりゴミになり  笠原道子

また、四民平等となり「苗字帯刀」の特権が失せ、

「徴兵制度の施行」で戦士としての価値も消失。

帯刀を禁じる「廃刀令」が追い打ちをかけた。

このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、

その誇りもいたく傷つけられた。

300万士族の怒りは、いつ爆発してもおかしくなかった。

≪万が一、本格的な反乱に発展すれば、政府はひとたまりもないだろう≫

プライドの詰まる五体をどうしよう  清水すみれ



この状況を非常に憂慮した人物がいた。

西郷隆盛である。

西郷は士族の乱を未然に防ぐため、目を外に転じさせようとした。

討伐の名目で士族を朝鮮半島で戦争させ、

欲求不満を解消させようというのだ。

「征韓論」である。

政府内では、その是非をめぐって激論がかわされ、

結局中止される。

敗れた征韓派参議は全員下野し、皮肉なことに、

士族の乱を警戒していた彼ら自身が、

後年その首領に祭り上げられてゆくのである。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく  太田のりこ

明治8年八重にとって、どんな年であったかと言うと、

3月、 川崎尚之助、東京で死去。
4月、 覚馬・新島襄との出会い。
10月、八重、襄と婚約。(翌年1月結婚)
11月、八重、「女紅場」を解雇される。(キリスト教信者との婚約が原因)
     29日、「同志社英学校」を開設。

 (月岡芳年画)
  
  江藤新平 
(画像は大きくしてご覧ください)


この明治8年2月、

ついに佐賀県において大規模な「不平士族の乱」が勃発する。

首魁は司法職をつとめた江藤新平であった。

大久保利通は、政府軍(鎮台兵)を大量に投入してこれを完全に鎮圧、

捕えた江藤を見せしめとしてさらし首にした。

企みは天知る地知るあきらめる  安土理恵

その後も士族の乱は続発するが、

いずれも政府軍の前にあっけなく敗れた。

この頃、すでに徴兵制度が確立され、

近代軍備も整い、

不平士族は政府の脅威の対象ではなくなりつつあった。

むしろ政府としては、残る不平分子を挑発し、

暴発したところを徹底的に潰しておきたかった。

そして、明治11年2月、大久保らの誘いにのった西郷の、

「西南戦争」へと進んでいくこととなる。

焼きますかそれとも茹でてみましょうか  竹内ゆみこ



神風連の乱
(敬神党の乱) (画像は大きくしてご覧ください)


明治9年10月24日、
太田黒伴雄、斎藤求三郎らをリーダーに熊本市で起こった。

この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、
明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、
この事件に呼応して「秋月の乱」「萩の乱」が発生し、
西郷「西南戦争」へとつながる。


秋月の乱とは―
明治9年10月27日、
宮崎車之助、戸波半九郎を中心に福岡県秋月で起こった乱。

萩の乱とは―
明治9年10月28日
前原一誠、奥平謙輔を中心に山口県萩で起こった乱。

そして明治10年の西南戦争へと続く。


かじかんだまま猩猩の旗印  井上一筒

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