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川柳的逍遥 人の世の一家言
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風に背を押されて叩く門がある  合田瑠美子



   新島襄ー自責の杖  (クリックすると画像は大きくなります)

「自責の杖事件」

明治13年の春。

当時、2年生は入学月のちがいから上級、下級の二組に別れていた。

両クラスとも少人数だったので、

教師会が合併させようとしたのが事件の発端だった。

上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が無届け欠席してしまった。

無断欠席は明らかに校則違反である。

5年生から校則違反の処分をせまられて、

学校側は頭をかかえてしまった。

どの色を塗ればあの日の夕焼けに  森田啓子

新島襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、

杖をもって学生の前に現われた。

「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。

 校長である私は、その罪人を罰します」

襄はそう言うなり、杖で左の掌をはげしく打ちつづけた。

杖は三片に折れてふっとんだ

本当は悪いヤツなんです私  前中知栄

 

徳富蘇峰は、クーデター「自責の杖事件」を起こし、

卒業まで1ヶ月という時期に同志社英学校を退学した。

同志社英学校を去ったが、

新島襄に対する尊敬の念を失ったわけでは無かった。

蘇峰は新島襄の安中旅行へも同行し、蕎麦の大食い勝負もしているし、

弟・徳富健次郎(蘆花)が同志社英学校に再入学した時も、

新島襄と連絡を取り合っている。

そして、新島襄が第2次大学設立運動を本格化させると、

蘇峰は関東方面で新島襄の手足となって動いている。

≪「自責の杖」事件の後、蘇峰は、紆余曲折を経て、

明治10年に東京で出版社「民友社」を設立。

そして、月刊誌「国民之友」を創刊し、

思想界に大きな影響を与える存在になる≫

仰げば教師先に卒業希望する  平紀美子



襄の痛めた手を介護する八重

明治21年9月、新島襄は蘇峰の助言により、

設立予定の学校の名称を「明治専門学校」から

「同志社大学」
へと変更する。

元々、新島襄は同志社大学という名称で大学を設立しようとしていたが、

「同志社」という名前には"キリスト教のイメージ"が付いているため、

「同志社大学」では、財界人からの寄付が集まらないとして、

「明治専門学校」という名称にしていた。

ほぐされて右脳左脳が入れ替わる  早泉早人

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