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川柳的逍遥 人の世の一家言
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代議士に腹立てながら生きている  新家完司

 

       槇村正直

「京都2代目知事・槇村正直」

天保五年(1834)、槇村正直は、長州藩士・羽仁正純の子として生まれた。

長州藩では諜報活動にも従事していたらしい(推測)。

明治元年、木戸孝允の推挙によって京都府に出仕する。

以降、権参事、大参事、権知事、知事職へと階段をのぼっていく。

明治2年、明治天皇が東京に居を移し、

京都の政治経済が混乱をきたした際、山本覚馬を抜擢し、

殖産興業をともに推進する。

明治3年、「小野組転籍事件」を起こす。

「小野組転籍事件とは」

※ 京都の豪商・小野組が本社を京都から東京に移したいと願いでた際、

当時の京都府知事・長谷信篤と大参事・槇村正直は、

京都復興が軌道に乗りかけているときに、

京都から小野組に出て行かれると、
税収が大幅に落ち込むことを懸念、

京都にとって深刻な問題として、
転籍届けを認めず、処理を怠った事件。

比叡山が白い息して腹式呼吸  岩根彰子



小野組転籍事件は、覚馬や木戸孝允の尽力で何とか収まったが、

明治8年、新島襄のキリスト教学校設立計画で、覚馬と対立。

覚馬は京都府顧問を罷免され、八重も女紅場を免職となる。

明治12年3月、覚馬が初代京都府会議長に選出される。

覚馬は13年10月に退任するが、この間、

槇村の強引な施政について覚馬らに糾弾され、

明治14年、知事を辞職し京都を去る。

このときは元老院に転出という建前をとられている。

慾という魔物を追ってまだ生きる  森 廣子



「槇村の失脚」

槇村は性格的に傲岸なところがあり、

いわば憎まれ役の京都10年であった。

槇村の治政を語るうえで、よく引き合いに出される「小野組転籍事件」

そこににおいては、牢固に思えるくらいのお殿様ぶり、

もっと悪くいえば、狭量な小役人ぶりを曝している。

開明的な近代人とはほど遠い、

封建領主的な振る舞いをしているのである。

そうしたこともマイナス評価に繋がっているのだろう。

裂けた粘土も鍋島のネコとなる 井上一筒

        

               製紙場                           琵琶湖疏水

「槇村が京都赴任中行った主な政策」

明治2年、小学校の開設、
         せいみきょく
明治3年、舎蜜局の創建、

明治4年、京都博覧会の開催、

明治5年、都をどりの創設、新京極の造営・女紅場の創建-など

「都をどり」は、槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。

これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになる。

新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、

門前の寺地を接収して、寺町通の東側に新しく道路をつくり、

恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。

現在の京極あたりの賑わいは、槇村がつくりあげたものなのだ。

乱調も足さねば生が錆びてくる  たむらあきこ

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