逆光線即ち三十歳の乳房 時実新子
「華族女学校玄関前の図」 (山本昇雲画)
(画像は拡大してご覧下さい)
袴に靴着用の服装規定により緋袴と指貫を折衷して、
女袴・海老茶袴が考案され制服として定着。
女袴は多くの女学校に普及し、宝塚歌劇の学校など現在でも見られる。
「時栄の不貞」(再出)
明治18年、
山本覚馬の家で
「一寸むつかしいこと」ことが起きる。
それは、
山本時栄と覚馬の2人が、
宣教師・
グリーン牧師の洗礼を受けて少し後の出来事である。
ある日、妻の時栄が体調を崩したため、
覚馬は医師・
ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、
診察してもらうことになたった
診察を終えた医師・ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに、
覚馬に
「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げた。
はてさて冬のはじめの朴葉味噌 大西泰世
その言葉を聞いた覚馬は、思わず、
「覚えが無い」と驚いたため、
時栄の不貞が発覚したのだ。
覚馬は時栄の罪を許したが、
八重は、
「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」
として、時栄を糾弾した。
結果、八重が時栄を追い出す形となり、明治19年に離縁に発展する。
きっと黒く残る女ののど仏 森中惠美子
「不義の後始末」・月岡芳年
東京日日新聞・発信錦絵(妻が夫の頬を切りつける)
【ついでに】
明治13年7月17日布告
「姦通罪」
「有夫ノ婦姦通シタル者ハ 六月以上二年以下ノ重禁錮ニ處ス、
其相姦スル者亦同シ
此條ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ其罪ヲ論ス、
但本夫先ニ姦通ヲ縱容シタル者ハ告訴ノ效ナシ」
(夫のある女子で姦通した者は、6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処する。
その女子と相姦した者も同様とする。
本条の罪は、夫の告訴がなければ公訴を提起することができない。
ただし、夫自ら姦通を認めていた時は、告訴は効力を有しない)
(昭和22年10月26日廃止)
時効まで笑ってるのが女です 森田律子
同志社女学校のダンス教習風景
「明治の女性」
幕末・明治に来日した外国人は、当時の日本女性をどうみていたか。
彼らの多くは、当時の日本女性が、アジア圏、イスラム圏などと比べて、
高い地位にあるとした。
長崎海軍伝習所の教官を務めていたオランダ人・
カッテンディーケは、
日本女性が、
「一般的に非常に丁寧に扱われ、
女性の当然受けるべき名誉を与えられている」
とし、彼女らがヨーロッパの婦人のように出しゃばらず、
表面上は男より下の地位に甘んじているが、
「婦人は決して軽蔑されているのではない」 と観察している。
本当に静かに桃は熟れました 河村啓子
食事をする女性たちの古写真 (明治13年)
また明治6年に来日したイギリスの日本研究家・
チェンバレンは、
「下層階級においては、中流階級や上流階級におけるほど、
女性の服従が実行されたことはない」 と見た。
もっとも、なかには否定的な意見もあり、実際に日本女性が、
「三従」に縛られていたとする証言もあるが
多くの外国人の目に、
当時の日本女性の地位が高いと映っていたことは注目に値するだろう。
※三従ー結婚前は父に従い、結婚後は夫に従い、夫の死後は子にしたがいう」
それとなくはんなり入れておく袂 みつ木もも花
東京女子師範学校の男袴姿の生徒(明治10年)
「当時の日本女性の魅力」
特に彼らを魅了したのは、若い娘たちだった。
幕末に
「サムライ」、「ハラキリ」、「ローニン」という日本語が、
当時の欧米諸国の新聞に見られたことはよく知られているが、
実は、
「ムスメ」 も同様に、
日本の若い魅力的な女性を表わす言葉として、海を渡っていたのだ。
明治初期の駐日ドイツ公使・
ブラントによると、
「ムスメは日本の風景になくてはならぬもの」 であり、
「日本の風景の点景となり、生命と光彩を添える」 ものだという。
また、プロシア艦隊の艦長・
ヴェルシーナにいたっては、
日本女性が全般的にかわいいので、
「日本全土の全体にほれこんでしまいそうだ」 とまで感じたという。
仮の世ながらさりながらこぼれ萩 和田洋子
カッテンディーケ肖像画
しかし、少数派ながら、こちらも否定的な証言がある。
前出のカッテンディーケは、
「心から美人だと思った女は数名に過ぎなかった」 とし、
オーストリアの外交官・
ヒューブナーも、
「日本女性の顔は端正とはいえず、決して美しくない」
と証言している。
ただし、そんなヒューブナーでも、日本女性は、
「陽気で、純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている」
から、見た目の問題はまったく欠点にならないとしている。
フクロウが書いたレポートかもしれぬ 筒井祥文[2回]
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