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川柳的逍遥 人の世の一家言
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囀りの飛沫を浴びよ生まれ変われ  八上桐子



山本権八の墓 (光明寺)

玄武隊上土組に編入されていた八重の父・権八は、

会津若松市一ノ堰地内において、一ノ堰にて戦死した。

権八の墓は他の会津藩士の墓と異なり、

氏名が彫られた自然石となっている。

八重はこの旅の時、父・権八が慶応4年9月17日、

城南の戦いで戦死したことから、戦場近くの一ノ堰に墓を建てた。

(八重は、父の墓前であらためて戊辰戦争の悔しさを噛みしめたことだろう)

生かされて生きて黄色に染まるまで 嶋澤喜八郎

8月23日、米沢から会津へ戻った襄は、

八重とともに思い出が多く残る若松を去り、9月2日、東京に着いた。

若松滞在中の8月17日、宿泊していた七日町の清水屋の分家、

栄町の清水屋において、喜多方の自由党員・宇田成一らが、

旧会津藩士を中心に組織された政府側の帝政党員によって、

襲撃される事件が発生した。

宿から徒歩で十分ほどの距離にあることから、

八重も事件の一部を目撃したかもしれない。

『遊奥日記』には、

「堺(栄)町清水屋ノ二階ニテ会議ヲ開キ、其ノ夜、

夜モ少シ更ケ各一睡セシ折、何人カ蝙蝠傘、棒チギリヲ持チ来リ」

と書かれている。 

歯並びと歯並び譲らない火種  岩根彰子

さらに、襄は23日に喜多方の宇田を訪ねている。

宇田の自宅は隠し部屋があり、2階への上り階段は一カ所だが、

隠された下り階段が三カ所あり、

いつでも逃げられる特殊な造りとなっていた。
 これ             あえ
「之ヲ穏便ニ付シ敢テ告訴セザリシ」 とする宇田に対し襄は、

「是非トモ告訴スベシト勧タレドモ、同氏ハ固執シテ聞カズ」

と告訴を勧めたが、宇田は聞き入れなかったという。

一連の言動から推察すると、

襄も自由民権運動に賛同していたと思われる。

壁のないカベかも知れぬグイと押す  本多洋子



【蛇足】-「自由民権運動」

明治7年、板垣退助は、「民撰議員設立の建白書」を提出し、

地元の土佐に政治結社・立志社をつくった。

そして薩摩藩や長州藩など、

一部の藩の出身者が政治を行っていることを批判し、

「税金を払っている国民が選んだ議員による政治が行われるべき」

だと主張した。

国民の自由と権利を求めた政治活動、「自由民権運動」の始まりである。

最初、士族が中心だった運動は、しだいに地主や商工業者、

農民など幅広い層に浸透し全国的な広がりをみせた。

板垣らの呼びかけで始まった国会開設の請願書には、

26万人もの署名が集まったほどである。

切り取り線で切るつもりはありません  竹内ゆみこ



こうして各地域においても議会制度の始まりをみるのである。

以降、運動はさらに発展し、明治14年前後になると、

板垣らの「自由党」や大隈重信の「立憲改進党」などの政党が生まれ、

ついに政府も憲法制定と国会開設に向けて動き出すことになった。

政府は板垣らと話し合い、10年後の国会開設を約束し、

憲法に基づく政治体制をひらくことを決定したのである。

大騒ぎタダれた月の後始末  酒井かがり

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