川柳的逍遥 人の世の一家言
完成直後の鹿鳴館 (各画像は拡大してご覧下さい) イギリスの建築家・J.コンドルの設計による国際的社交機関の洋風建築物。 明治14年に着工、 明治16年7月に落成。 当初は外国人接待所という名称で、約三年の工期と18万円という、 当時としては莫大な建設費をかけてつくられた。 「鹿鳴館時代」 明治16年11月28日、1200名を招待して盛大な開館式が行われた。 「鹿鳴館」では外国からの賓客接待ばかりでなく、 天長節の祝賀会行事をはじめ、数々の国内行事も行われるようになる。 これらの夜会、舞踏会、高官婦人による慈善事業などが世間の注目を集めたが、 欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」 として非難の声を挙げていた。 手裏剣が赤絨毯に落ちている 前田咲二 一方当時は、日本の政府高官やその夫人でも、 大抵は西欧式舞踏会のマナーやエチケットなど知るよしもなく、 また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、 ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていた。 ともかく貴婦人たちは真剣勝負でその場に挑んだが、 西欧諸国の外交官も、うわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、 その様が奇異であり、日記などに「大変滑稽」などと記して嘲笑していたようだ。 (その様子がジョルジュ・ビゴーの風刺画に顕著に描かれている) 外反母趾我慢してますシンデレラ 加納美津子 明治の初期、外務・大蔵次官の大隈重信は、 築地本願寺に五千坪の広大な屋敷を構えていた。 「築地梁山泊」と呼ばれたこの屋敷には、 彼を慕う者たち―伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋など、 後の政府の要人たちが集い、政治論議に花を咲かせていた。 薩摩出身の中井弘もそのなかの一人。 しかも彼は、柳橋の芸妓だった武子にひとめ惚れして、 他ならぬ事情でしょう椅子での正座 山本昌乃 だが若き男たちの溜り場で、美貌の武子が目をつけられないはずがない。 放浪癖のある中井の留守中、井上馨が武子に夢中になり、 彼女を奪ってしまったのだ。 その後、中井が帰国、妻が寝取られたことを知り、あっさり引き下がった。 井上に「武子と添い遂げる」と誓約書を書かせ二人はめでたく結婚する。 井上と中井はその後も友人関係が続き、 中井は武子のいる井上邸に出入りしていたというから、 何とも不思議な関係である。 片減りの靴に合わせるインソール 合田瑠美子 誓約書通り井上は、武子を大事にした。 ヨーロッパ視察旅行にも同行、2年間のヨーロッパ生活で、 武子は語学や西欧のマナーやダンスなどスマートな社交術身につけた。 またミシンや編み物、料理など積極的に学んで家庭的な面も見せている。 帰国後、井上は外国からの賓客を招く接待所が必要と、 「鹿鳴館」設立に奔走する。 鹿鳴館が開館すると武子は夫に尽力し、堂々と優美に接待役をこなした。 奇しくも、この「鹿鳴館」の名付け親は中井であった。 (「詩経の小雅鹿鳴」の詩から引用。 "鹿は餌を見つけると一匹では食べず、仲間を呼んでみなで食べる" という意味の、社交場にふさわしい名称である) 選びながら時を繋げていくキミと 立蔵信子 鹿鳴館外交の中でも最も華麗な舞踏会のひとつとして知られるのは、 明治20年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。 しかしこの舞踏会は実は鹿鳴館ではなく総理官邸で行われたもので、 しかも、外交とは直接関係のない催しだった。 伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、 実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、 伊藤は好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。 しかし当時の国粋主義者たちは、 このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。 アメリカへの渡航歴があり、外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、 これを契機に憂国の感を深め、 イヌに吠えられライオンにほえられる 井上一筒 「伊藤梅子」ー初代内閣総理大臣夫人 伊藤博文けの集合写真 明治の後半、神奈川大磯の本部・滄浪閣で撮影されたもの。 中央が伊藤博文、前列左から3番目が梅子。 好色宰相の異名をとった伊藤博文だが、 梅子自身、下関の売れっ子芸妓「小梅」時代に伊藤と知り合い妊娠、 伊藤を離婚させ、再婚させた。 出来ちゃった婚、略奪婚の走りだが、そんないきさつもあってか、 梅子は夫の女遊びには目をつぶり、超然と構えていた。 ありがとうを言う汽笛になりながら 八上桐子 自宅に遊びにきた芸妓たちに帰りには必ず土産物を持たせたり、 朝まで過していった女には、翌朝、化粧や身の回りの世話までしてやるなど、 大人の対応を示し、遊び女たちに畏れを抱かせた。 芸妓遊びがこうじて、伊藤の邸宅は借金のかたになっていたという。 しかし女にだらしなくても、金銭には終着せずにきれいだった」 のが誇りだった。 虹のたつカビを女は持っている 板野美子 昭和42年、伊藤がハルピンで暗殺の一報を受け取ると、 梅子は動揺することなく、涙もみせなかった。 そして、 " 国のため光をそえてゆきましし 君とし思えどかなしかりけり " と、その辛い胸中を歌に託した。 数え歌覚えて一つ背が伸びる ふじのひろし PR |
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